今までずっと気になってはいたけれど記事に書かなかったことを記事にしてみると新しい発見がある。
『言経卿記』に「ツマキ」が登場するという。このことは前から知っていたような、いないような。Tmさんがあちこちでコメント書いているので、どこかで見たかもしれない。ただ『言経卿記』って国立国会図書館デジタルコレクションで見れないし、図書館でも貸出禁止なので、調べようと思いつつずっと後回しにしてた。今回、調べてたら桐野作人氏の2007/03/15付の記事「膏肓記 拙著本日から発売!」のコメント欄の桐野氏のコメントに詳しいことが書いてある。
とくに『言経』天正七年五月二日条は面白い記事ですね。
山科言経が父言継の死去に伴い、信長邸に挨拶にうかがっています。この邸宅は同年二月に竣工した「二条御新造」(のちの二条御所)のことです。
信長は荒木村重を攻めるため摂津に出陣し、途中から帰京して二条御新造に入ったところに、言経が挨拶に祗候したのでしょう。
信長は言経に言継の遺領安堵と家督相続を許したようですが、ご指摘のように、信長は「面顔ニ腫物出来」という事情で、言経には面会しておりません。問題の一節はその次です。
「其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ帯二筋ツヽ遣了、其外カヽ 遣了」
ここに「ツマキ」が登場します。
で、これはついさっきふと気になって、また検索してたらアリノリさんのブログ「ありエるブログ」に『言経卿記』天正七年五月二日条がまるまる載っていた。
二日、丁未、天晴、
前右府(信長)ヘ罷向了、無対面、粽被出了、次各被帰宅了、
今日衆者、菊亭・[中略]・五辻左馬助等也、前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、
然者家領無別儀之由申之、秈様躰也、且祝着了、
但面顔ニ腫物出来之間、惣別無見参了、
進物帯(生衣、三スチ)進之、其外近所女房衆ツマキ・
小比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯(二筋)ツヽ遣了、
其外カヽ 遣了、又末物共・彼侍共遣了、薄女房衆同道了、
驚くべきことに「粽被出了」とある。アリノリさんの現代語訳によると
二日、言経は再び二条御所へ出向くが、信長とは会えず、粽を貰って皆帰宅した
となる。その通りだろう。問題はそのあと。
前右府ヘ北向・阿茶丸等被罷向了、老父御逝去、然者家領無別儀之由申之、秈様躰也、且祝着了、但面顔ニ腫物出来之間、惣別無見参了、
大意は言経の妻と子の阿茶丸も信長に挨拶に行ったが会えなかったということ。そして
其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯(二筋)ツヽ遣了、
である。桐野氏のコメントでは
ここに「ツマキ」が登場します。
言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をしたときに、その流れで二条御新造にいる女房衆にも挨拶したというのは十分ありえますね。というか、それが儀礼的な慣習でもあります。
となると、「ツマキ」は信長付きの女房衆ということになりますから、勝俣鎮夫氏の信長の「キヨシ」(気好)だった側室という解釈があてはまるのでしょうか。
とある。Tmさんももちろん「ツマキ」は女房衆だと考えている。
だが、この解釈で良いのだろうか?何が言いたいのかというと、この「ツマキ」は人間か?ということ。すなわち『言経卿記』の「ツマキ」とはチマキのことではないのか?ということ。
其外近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等ニ、帯(二筋)ツヽ遣了、
とは「そのほかに、近所の女房衆には「ツマキ(チマキ)」を、小比丘尼・御ヤヽ等には帯を進物として渡した」という意味なのではないだろうか?
さてアリノリさんの記事には、『言経卿記』の天正4年5月2日の記事の載っている。
二日、甲午、天晴、
右大将(信長)ヘ礼ニ罷向了、各対面也、チマキ有之。
上下群集也、今日衆者、二条殿・[中略]・老父・
何とここにも「チマキ」が出てくる。これを見るに粽はたまたま出されたものではなく、5月2日に粽の贈答の習慣があったのではないか?と思われるのである。現在では5月5日端午の節句に食べるけど。当時も食べるのは5日だったのかもしれないけど。
※ なお「チマキ」と「ツマキ」の違いは単なる表記のブレかもしれないし、あるいは女房言葉として「ツマキ」(昨日書いたように「チ=血」を忌避するというような理由で)と呼ぶのかもしれない。
こういうことなのではないだろうか?