これ、平成24年の「永井直勝とその一族」展で、信康事件を扱ってて(直勝は大浜出身なので)、そこに展示されてた(たしか)家忠日記補遺に、信康は大浜に自ら退去したこと、一度岡崎に申し開きに行き、また大浜に戻ったこと…が書いてあった覚えが https://t.co/dQRtn5zLzw
— りおん (@Rionn_unosarara) 2017年6月25日
手元に資料ないしうろ覚えなのがつらい…古文上手に読めないから解釈違いかもしれない。でもあれが本当に「信康は自ら大浜退去(謹慎?)」「岡崎との行き来が出来た」なら、いわゆる浜松派と浜松派の対立説がちょっと変わって来るんだよなぁ…。
— りおん (@Rionn_unosarara) 2017年6月25日
補遺じゃない。『家忠日記増補追加』だ
— りおん (@Rionn_unosarara) 2017年6月25日
『家忠日記増補追加』(古典籍総合データベース)によれば
八月大
三日 大伸君三州岡崎ノ城ニ渡御アリ故有テ三郎信康ト御父子ノ間御不快タルニ因テ也信康岡崎ノ城ニ避け同国大浜ノ郷ニ閑居シ玉フ
四日 三郎信康大浜の城ヨリ岡崎ノ城ニ来テ 大神君ニ謁シ誤ナキノ旨言ヲ尽シ陳謝シ玉フト言ヘトモ 大神君御疑心遂ニ散セサルノ間信康甚雨ヲ凌テ夜中ニ又大浜ノ郷ニ帰リ玉フ
すなわち信康は三日に岡崎を退去し大浜に移り、四日に大浜から岡崎に家康を訪ね、再び大浜に帰ったということになる。
ここで考慮しなければならないことがある。現在、『家忠日記』の四日の記事について「信長(康)大浜へ被退候」と詠まれているのだが、文科大学史誌叢書では「信康大濱江御返候」となっていることである。「御返」ではなく「被退」だと判読したのは、岩沢愿彦氏で、それ以降「被退」が定着した。
⇒(<論説>家忠日記の原本について)
「御返」であれば、信康は4日時点で既に大浜に居住し、家康に会いに岡崎を訪れたという結論に至る。さらに『家忠日記』(文科大学史誌叢書)によれば
三日 浜松より家康岡崎江被越候、
とあるので、こっちは必然というわけではないが、3日の時点では信康が岡崎にいたという推測ができ、信康が大浜に移ったのは3日だという推測も可能になる。
すなわち、『家忠日記増補追加』の著者の松平忠冬は『家忠日記』以外の何らかの情報を得てこのように書いたのではなく、純粋に『家忠日記』のみを見て、「御返」とあるのだから、このようなことがあったのだろうと解釈した可能性がある。
であるからして、この部分「被退」なのか「御返」なのかということが重要になるであろう。それは俺の能力では全くわからない。