次にこれは松平広忠が降参したのか否かという問題には直接関係しないけれど気になること。
覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、
この「弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候」とはどういう意味か?
村岡幹生教授は
織田信秀は今や、鵜殿へ何ら愛想するまでもないと(「一段ノ曲なく」)お思いとのことだ。
と訳している。辞書をみると
4 おもしろみ。愛想。「―のないことをいう」
⇒きょく【曲】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
と「曲」に「愛想」という意味がたしかにある。
しかし、本当にそういう意味なんだろうか?
俺は「曲」とは「楽曲」の「曲」だと思う。というのも「一段」の意味を調べると
2 文章や語り物などのひとくぎり。「義太夫を―語る」
⇒いちだん【一段】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
とあるからだ。また「段物」という言葉があり
1 能で、1曲の中心となる謡いどころ・舞いどころ・囃子 (はやし) どころのうち、クセ・狂いなどのような定型に属さないもの。「熊野 (ゆや) 」の文 (ふみ) の段など。
2 浄瑠璃で、各段のうちの有名または特殊な一段。道行 (みちゆき) ・景事 (けいごと) などを集めたものを「段物集」という。
⇒だんもの【段物】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
とある。
「一段の曲」とは「ひとまとまりの曲」といったような意味ではないだろうか?だとすれば「一段ノ曲なく」とは「ひとまとまりの曲ではない」というという意味になるのではないだろうか?
つまり「一段ノ曲なく」とは現代でも良く使われる用法としては 「幕を閉じない」「幕を下ろさない」あるいは「ステージは終わらない」等と同義の言葉なのではないだろうか?
では何が「ひとまとまりの曲ではない」のかといえば「東国はいくんニ成候」が「ひとまとまりの曲」ではないということになるだろう。
すなわち「弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候」とは、「尾張と駿河が戦争をして尾張が勝った(駿河勢が退却した)ので、これで決着がとりあえず付いたとすることもできるけれども、信秀はそれで一区切りとせず、さらに軍勢を進めようと考えているらしい」という意味になるのではないか?
※ もちろん「一段ノ曲なく」という用法が他の史料にもあって「何ら愛想するまでもない」という意味だというのが定説なのであれば俺はおバカなことを言っていることになるけれど。
なお天文11年にあったとされるいわゆる「第一次小豆坂の戦い」は、
織田信秀の西三河平野部への進出に対し、松平氏を後援しつつ東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元は、西三河から織田氏の勢力を駆逐すべく、天文11年(1542年)8月(一説に12月)、大兵を率いて生田原に軍を進めた。一方の織田信秀もこれに対して安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の上和田に布陣。同月10日(9月19日)、両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突した。
⇒小豆坂の戦い - Wikipedia
というもので、織田信秀を西三河から駆逐しようとする今川勢に対する防衛戦であるから、信秀は今川勢を退却させれば一応目的が達成されるのである。結果は織田軍の勝利だといわれ、その際に信秀がさらに東三河を攻撃するという噂があったとすれば、
覚悟外ニ東国はいくんニ成候間、弾正忠一段ノ曲なく被思たるよしに候、定而彼地をも只今の時分ハ攻いらんやと致物語候間、
と整合性があるといえるのではないかと思う。