北条氏康書状について(その16)

殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、

何度も言うけれど、これが一つの文である。したがってこの文中に書かれていることにこそ強い繋がりがあるのであって、前文との繋がりはそれほどではないのである。


ということを前提に考えれば「岡崎之城自其国就相押候」で相押さえているのは織田信秀とは限らないのである。


村岡幹生教授は「日覚書状」の解釈から、松平広忠織田信秀に降参したという方向で考えているので、岡崎城を信秀が相押さえたと解釈したいのだろうけれど、既に書いたようにその解釈は前文とこの文の前半をぶったぎってくっつけたものであって、全く同意できるものではないのである。


では、どう解釈するべきか?俺にはこの文はかなり難解である。前に考えた時もいろいろ悩んだ。


しかし、これはやはり

岡崎之城自其国就相押候

で区切るのではなくて

岡崎之城自其国就相押候駿州ニも

と読むべきであろうと思う。つまり
相押さえているのは駿州(今川義元)であろうということ。


ところで、この文には「其国」「彼国」という語が使われている。これらは何を指しているのだろうか?


「彼国」は「三州」で間違いないだろう。では「其国」は?


村岡教授は

「其れ以後」(1→2以後)によろず織田にとって「相違のあしらい」が生じたとあるのは、これを示唆する。

と書いているので「其国」とは「尾州」と考えているのだろう。また織田が岡崎城を相押さえていると解釈しているので「岡崎之城自其国就相押候」の「自其国」も当然「尾州より」ということになるだろう。


※ なお「相違のあしらい」という言葉の意味が俺には不明なのだが、村岡教授によれば、織田は今川と合意の上で三河を攻めたけれども、岡崎攻落までは想定していなかったので「相違のあしらい」が生じたということらしい。その解釈の一つとして俺の解釈とは合致しない。


しかしここで「萬其国相違之刷候哉」と推測の形で書いている。織田にとって「相違のあしらい」が生じたたのなら、それは織田にとってはわかっていることで推測するまでもないことである。ということは織田が推測したのではなくて北条氏康が推測したということになる。だが、氏康文書を見れば、まず信秀が氏康に出した書状に書かれていることを元にして最後に「毎度御戦功、奇特候、」とか「無余儀題目候、」といった感想を付け加えている形になっているのに、この箇所だけはなぜか信秀の書状には書いてなかったことを書いているということになり非常に不自然である。


「其国」は駿州だと考えるのが最も自然であろう。


もう一つわからないのは、

殊岡崎之城自其国就相押候、

殊に岡崎の城、其の国より相押さえ候に就き、

「就き」である。俺はここに「就き」という言葉がつく意味がさっぱりわからないのである。


しかし「就」を「すでに」と読むのなら意味がわかる。
就の意味 - 中日辞書 - 中国語辞書 - goo辞書



「其国」が「駿州」で「就」が「すでに」であれば「岡崎之城自其国就相押候駿州ニも」は「岡崎の城を其国(駿州)よりすでに相押えている駿州にも」となる。「駿州」がかぶっているようにもみえるけれど前者はあくまで「其国」である。


今川が岡崎を押さえているというのは史実とも合致するだろう。松平広忠は父の清康が殺害されたときには家督を継ぐにはまだ若く、岡崎は大叔父の松平信定に押領され、伊勢に放浪、後に今川義元の執り成しで岡崎城に帰城。後に子息竹千代(家康)が今川の人質になることにより完全に今川傘下となったけれども、それ以前から今川の影響力は強かったに違いない。竹千代が天文16年に今川の人質として送られる途中で織田に奪取されたときも、竹千代の生命よりも今川への忠節を選んだのである。