北条氏康書状について(その14)

殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、

について。村岡幹生氏の読み下しは

殊に岡崎の城、其の国より相押さえ候に就き、駿州ニも今橋本意に致され候、其れ以後、万(よろず)其の国相違の刷(あしらい)候哉、茲に因りかの国(に)相詰めらるの由承り候、余儀無き題目に候、

論文には

北条氏康B書状が述べる天文十六年の三河情勢を整理すると、以下のとおりである。

(1) 同年に織田信秀三河でいくさを起こし、安城の敵を破った
(2) また岡崎城を確保した。
以上は、織田と今川が相談の上でのことである。
(3) また、今川義元においても今橋を「本意」にした。

とあるので、村岡教授においては(2)+(3)が上の本文の解釈ということになるだろう。


なお(1)については既に書いたけれど、俺の解釈では、『「去年」に松平広忠が出兵してきたので安城の要害でこれを破った』となる。またこれも既に書いたように「織田と今川が相談の上」というようなことは文書には書いておらず「三河(松平)のことは今川が北条に相談してこない」と解釈する。俺の解釈の方がスッキリすると自分では思っているけれど、それはそれとして(2)および(3)については(1)の解釈の問題を抜きにして別に考えてみる。


ちなみになぜ(2)と(3)の解釈について(1)の解釈の問題を抜きにして考えることができるのかというと、これも既に書いたように、(1)は「仍」で始まり(2)+(3)は「殊」で始まる文であり、両者は全く関係が無いとは言えないかもしれないが、別の文だとかんがえられるからである。


というわけで、(1)と(2)を一纏めにしている村岡教授の解釈には既にこの時点で俺は同意できないのである。


そもそも(1)と(2)は別の文に属するものであり、すなわち(1)に書かれている安城での戦と(2)に書かれている出来事が、(1)が起きて(2)が起きたという因果関係があるとは思えないのである。


※ もしかしたら「殊(に)」とあるのを、前文との繋がりと考えているのかもしれないけれど、「安城で敵を破った」ことと「岡崎城を攻略した」ことの間を「殊に」で結ぶのはどう考えたっておかしい。「殊」に特に深い意味はなく文の区切りと考えるべきである。もし「殊」が前の文と後の文を結ぶものだとしたら、「就中」もそうだとするべきだが「就中」の前と後の文を結びつけるのはどう考えたって無理である。