北条氏康書状について(その10)

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、

村岡幹生教授は「無相談」が本当は「被相談」なのは明白だとする。横山住雄氏も同様の解釈。一方、平野昭雄氏は「無相談」としている。村岡・横山説と平野説の対立は、織田信秀今川義元と相談の上で三河を攻撃したのか、それとも相談しないで攻撃したのかという問題である。


だが「被相談」にしろ「無相談」にしろ「織田が今川に相談した(または相談せず)」という解釈だけしかできないというわけではない。なぜ研究者達が「織田が今川に」と解釈しているかというと、そのあとの「去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候」を「信秀が安城を攻め破った」と解釈しているからだ。そう解釈した場合には「織田が今川に相談した(または相談せず)」ということになるかもしれない。けれども「去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候」が本当に「信秀が安城を攻め破った」という意味なのか俺は疑問に思う。そのことは後で検討する。


しかし、それ以前にもっと根本的な疑問があるのだ。


それは「駿州無(被)相談」を「駿州に無(被)相談」と読めるのか?という問題。


何を言っいるんだ?「に」と書いてなくても、ここは「駿州に」と読むしかないではないか?お前はバカか?と思われるかもしれないけれど。しかし「駿州ニも今橋被致本意候」は「駿州ニも」と書いてある。だったら「駿州無(被)相談」も「駿州無(被)相談」と書いてなければ不自然ではないだろうか?


何を言いたいかといえばつまり、
「駿州無相談」は「駿州が相談無く」と読むべきではないか?
ということ。


ますますわけがわからないと思われるかもしれない。「駿州が相談無く」では三河を攻めたのは今川になってしまうではないか、そんな解釈ありえないと。


だが俺はそもそもそこを疑っているのである。すなわち学者にしろ在野の研究者にしろ

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、

を「駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由」と読んでいる。その上で「無相談」は「被相談」だとか様々な解釈をしている。しかし、そこはそう読むのではないのではないか?


「仍三州之儀、駿州無相談」と読むべきなのではないか?


すなわち「三州の儀は駿州が無相談です」ということであり、つまり
三河松平広忠(の情勢)については今川が北条に相談してくれません」
ということではないのだろうか?


氏康文書の冒頭に

如来札、近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、祝着候

「懇切ニ示給候」である。北条氏康織田信秀が書状で三河情勢を懇切に説明してくれたことに感謝しているのだ。なぜ氏康は感謝したのか?礼儀上のことだと考えることもできるだろうけれど、氏康は三河情報が不足していたから感謝しているのだと考えることもできるのではないか?


そして文書の後半に

近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候

とある。「迷惑」とは「困ること」という意味。「近年今川と和睦したけれど、今川の疑心が止まらず困っています」。その困っているの中に三河情勢について教えてくれないということも含まれているのではないだろうか?



「駿州無相談」は普通に読めば「駿州が無相談」なのではないか?それを研究者達は「駿州に無相談」と読んでいるけれど、果たしてそれは妥当なのか?そこのところを徹底的に考えるべきなのではなかろうか?