北条氏康書状について(その17)

次に

殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、

今橋被致本意候

について。


村岡幹生氏の読み下しは「駿州ニも今橋本意に致され候」。意味は「今川が今橋を本意にした」ということ。


今川が今橋城(城主戸田宣成)を攻め落としたのは事実。通説では天文15年11月15日だという。天文15年11月25日付今川義元感状に

同年十一月十五日に今川の臣天野景泰が今橋城の「外溝」を乗り崩し、「宿城」に乗り入ったことが述べられている。

そうだ。ただし

山田邦明氏は、これをもって今橋城が落城したとは解釈していない。

そうだ。詳しくは村岡教授の論文を参照のこと。とにかく村岡教授の考えでは今橋城は天文16年に落城したということになる。


なぜここで今橋城の落城時期に村岡教授がこだわっているかといえば、「日覚書状」が天文16年のことであり、また氏康書状の「去年=昨年=天文16年」とみなして両者を繋げようとしているからだ。それは

さて、(1)→(2)が織田・今川相談の上でのことであったとなると、今川による今橋支配(城代配置)を受けて織田・今川の間で交渉が持たれ、両者による三河分割の線引きについて一定の合意が成立したことを意味する。

という記述に端的に現れている。


しかしながら、俺の考えでは氏康文書は「駿州被相談」ではなく「駿州無相談」であり、なおかつそれは織田と今川が相談したとかしなかったとかいう話ではない。さらに「去年」は昨年とは限らないし、そもそも「去年」の出来事は織田が安城で敵を破ったということであって、「殊岡崎之城」で始まる文と強い関係は無い。そういうわけで俺は村岡説に全く同意できないのである。


だが、これについてもそういうこと以前にもっと根本的な疑問があるのだ。


そもそも「今橋被致本意候」は今川によって今橋城が落城したことを述べたものではないのではないか?と。


(つづく)