北条氏康書状について(その18)
引き続き
殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、
の
今橋被致本意候
について。
村岡幹生教授は、これを「駿州ニも今橋被致本意候」で区切り
今川義元においても今橋を「本意」にした。
と解釈している。「本意」にしたとは村岡教授の説明によれば、山田邦明氏によると今橋城主の戸田宣成は天文15年11月に討死したのではなくて、降伏して城を明け渡し今川の臣になったのだという。村岡教授はそれを採用して降伏から城明け渡しまで1ヶ月余の交渉期間があったと想定し、天文16年に今橋を「本意」にしたということらしい。どうしても天文16年のことにしたいのだろう。
しかし、この文には根本的な疑問がある。
そもそも「(駿州ニも)今橋被致本意候」という文が難解である。
確かに「駿州(今川)」、「今橋」、「本意」という単語を見れば、今川義元が今橋城を攻め落としたことを述べているようにみえる。みえるけれども、そのことを「(駿州ニも)今橋被致本意候」と記すのはどうにも腑に落ちないのである。
専門家はどう考えているのだろうか?どこにも不審な点はなく普通にそう読めるのだろうか?それとも難解だけれど「今橋落城」の事実があるからそのことを記したのだと考えているということだろうか?
なお、この文を難解だと考えているのは俺だけではなく、「歴探」の高村氏も
確かに「駿州ニも今橋被致本意候」は解釈が難しい一文だと思います。
とコメントしている。
⇒検証a21:小豆坂合戦の趨勢
また「Papathana's ブログ」の巴々さんもこの文に疑問を持っておられるようだ。
⇒川戦:安城合戦編⑬漢字パズルⅢ(被の読み方)
俺は俺でこの文に不自然さを感じてあれこれ考えて、松平広忠の嫡男竹千代(家康)が天文16年に今川の人質になるために駿府に赴く際に吉田(豊橋=今橋)まで海路で行き、そこらら陸路をを行く予定だったという話があるので、竹千代が戸田康光の裏切りによって織田の人質になったことを記しているのではないかと推測した。
しかし、今はその考えを改める。
(つづく)