妻木氏の謎(その3)

この記事は2018年にツイッターで考察したことを思い出しながら書いている。妻木氏の諱の謎はほぼ解けたと思う。だが妻木氏の謎はまだあったことを思い出した。

 

諱を修正した上で『寛永譜』『寛政譜』を見れば

(1)妻木藤右衛門廣忠は明智光秀の叔父で天正10年光秀滅亡の時に近江坂本西教寺で自害。

(2)その子の頼忠(傳入)は本能寺の変後に家督を子の家頼に譲り妻木村に閑居。慶長5年関ヶ原合戦時に西軍方の岩村城主田村具安(直昌)に息子の家頼と共に戦う。(『寛永譜』での諱は貞徳で子が頼忠)

(3)頼忠の子は家頼(雅樂助 長門守)。関ヶ原の時に父と共に戦う。(『寛永譜』での諱は頼忠)

(4)家頼の子が頼利。『寛永譜』編纂は頼利の時。

※ 実は『寛永譜』『寛政譜』の記述に気になるところがあるのだがここでは略

 

前に『陶祖碑』について記したが「陶祖」とは瀬戸焼の開祖とされる加藤景正のこと。『陶祖碑』には加藤景正のことだけではなく、その子孫についても書かれている。

妻木廣忠為明智光秀驍将戦死於阪本城子頼忠為光秀妹婿関原之没岩邨城主田丸中務黨大阪頼忠與之戦斬旡數東照公命堅守妻木城大阪没又有戦功世領土岐郡十二町邨

多治見-陶祖碑の原文

これは加藤一族が妻木氏に仕えて戦功を立てたことに関して記しているのである。妻木廣忠の子が頼忠で、関原役で田丸中務(具安)と戦い妻木城を守り、大坂役でも戦功を立て土岐郡12町村を領すと。『寛政譜』の妻木氏の事績とほぼ一致するといって良いだろう。そして加藤一族はそれらの戦いに従軍したということだろう。

 

ところで『久々利村誌』に『陶祖加藤由来記』という史料が収載されている。

天正九年に加藤伊之介實父の名を取り加藤伊右衛門尉景山と改名して罷越成則五郞右衛門之娘初を妻にむかへ、双方とも品々の器物燒年月の星霜を經る內に妻木殿の御用窯と成り、此の後天正十年の頃景豐舍弟加藤與三兵衛景光は同所郷遠き山に能土を見屆く、夫より久尻村へ罷越燒出べく由舍兄の景豐に談せし處、夫れは何分いとやすきとて軈而妻木の城主に被相願候處早速達上聞勝手に可燒出と有て同拾壹年末の春久尻村へ出大窯を建燒出す。尤も景光の嫡子四人有り惣領四郞右衛門尉景延、後に人位して加藤筑後守景延と號。二男彌左衛門尉景賴、三男太郞右衛門尉景盛、四男庄左衛門景忠。右兄弟四人の嫡子等いづれも當地に住居して燒物職に勵精力故に妻木玄蕃之守殿の御用窯也。然る處に彼筑後守景延燒出せし器物無双なるが故に妻木殿悉く喜悅し給ふて、彼の土地の異名を窯に名付くべしと有つて末世に至る迄久尻景と言ふべし由被仰出ける。

 

去る程に慶長七年九月下旬の頃田丸武藏守と言ふ謀叛人惠那郡岩邑城主を責め亡ばさんがため下街道を步行之砌り、久尻邑筑後守聞えて彼田丸社妻木玄蕃守殿之怨敵と言ふ。勿論岩邑城主を責むる有は是則我が先祖之生國也、いで某先がけをして武藏守が首を刎ね兩所の難を免れんものと彼筑後守兄弟、親子六人其の外譜代之家人召使ひもの迄召連れ、てんてんに獲道具を用意して馳せ向ひしに折節、

(太字は筆者)

 

見ての通り「妻木玄蕃守」という人物が登場する。妻木玄蕃守とは何者か?寛永譜』『寛政譜』の妻木に玄蕃守は無い。妻木光廣という人物が玄蕃だがずっと後の人。しかし同時代に妻木玄蕃守という人物が実在するのは一次史料で確認できる。だが何者なのかがはっきりしない。

 

先日、妻木頼利宛伊達政宗書状が発見されたと報じられたが、『仙台市史 資料編12 伊達政宗文書』に「妻木玄蕃様御報(頼忠ヵ)」とあり、妻木玄蕃守は伊達政宗と交流があり妻木頼忠(実は家頼のことだろう)に比定されている。しかし『寛永譜』『寛政譜』において彼は「雅樂助」「長門守」であり「玄蕃守」とはされていないのである。

 

ただし、『岐阜県土岐郡妻木村史』所収の「妻木系図」によ

家頼 妻木長門守雅樂介 玄蕃頭嘉忠傳入頼忠之一男 元和九年十月卒 葬崇禅寺

とある。「玄蕃頭嘉忠傳入頼忠之一男」とはどういう意味だろうか?家頼は「玄蕃頭嘉忠」ともいい「傳入頼忠の長男」という意味だろうか?

 

すると妻木家頼(一般に妻木頼忠と呼ばれている)は「妻木嘉忠」でもあるということであろうか。

 

大日本史料』(伊達貞山治家記録)元和六年四月四日に

今ニ御城ヘモ出仕シ玉ハス、大形御快キ間、明日ハ登城シ玉フヘシ、其刻殿中ニ於テ逢セラルヘキ旨著サル、妻木玄蕃(嘉忠)殿ヘ御書ヲ以テ、黃鷹一居進セラル、

とある。

 

謎は解けつつあるようには思う。しかし同時にもやもやとしたものが残る。いや逆にもやもやが増しているようにさえ思う。