斎藤利三の謎(その11)
『美濃国諸家系譜』における利三の出自について。
斎藤利永の子に利藤(妙椿)・利安がいる。利藤(妙椿)の子に利国(道純)、利国(道純)の子に利賢と利胤という人物がいる。利胤の子が利賢、利賢の子に石谷兵部少輔、利三、利次がいる。
利永-利藤(妙椿)-利国(道純)-利胤-利賢-利三
※ なお現代の研究によれば利藤と妙椿は別人とされる。また「道純」とあるのは「妙純」のこと。
⇒斎藤妙椿 - Wikipedia
⇒斎藤妙純 - Wikipedia
史実はどうあれ、江戸時代にそういう認識があったというのが重要な点。しかしながら『寛政譜』等においては、そのようなことは一切書かれていない。それはつまり利三の子孫や蜷川氏などの親族にはそのような認識が無かったということであろう。
江戸時代において利三は斎藤妙椿の直系子孫だという認識が一部にあったとしても、当の子孫がそんな認識を持っていなかった。一般論として戦乱の世で正しく伝わらなかったという可能性はあるかもしれないが、利三の子の利宗、三存、春日局は本能寺の変の後に土佐に逃れ生き延びた。利宗は天正10年に16歳だから祖先のことを知らないはずがない。それに母(利三の妻)も土佐に逃れたし、その土佐には利三の兄弟の石谷兵部少輔と利三の従兄弟の蜷川親長がいた。元親夫人も利三の妹(ただし天正11年死去)だ。
先祖が守護代だったという、そんな重要なことが伝わらなかったなんてことがあるだろうか?
というわけで、俺は『美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』における利三の出自は全く信用できないと思うのである。
※ なお『美濃国諸家系譜』には斎藤利藤(妙椿)の弟の利安の子に利綱、その子に「利胤 伊豆守・和泉守」という人物がいる。利藤(妙椿)の孫の利胤と同一人物であれば養子の可能性もある。また利賢という人物が利国の子と利国の子の利胤の子の二人いる。同一人物であれば利胤が弟を養子にした可能性もあると思われる。
※ また利胤が「和泉守」を称しているのは、本当は利胤-利賢が「和泉守」であり、利賢が「伊豆守」とされているのは、『寛政譜』等で利三の父が「伊豆守」とされている影響で「いずみのかみ」は実は「いずのかみ」なのだという推理から変更された可能性があるように思われる。