斎藤利三の謎(その12)

美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』の利三の出自は全く信用できないというのが俺の結論


しかるに、たとえば桐野作人氏の『だれが信長を殺したのか』には

それらの記述を総合して、ほぼ確実だといえるのは次の諸点である。
(1) 父は斎藤伊豆守と名乗り、通称は右衛門尉、諱はおそらく利賢だと思われること。

と書いてある。しかし俺には利三の父が利賢だというのが「ほぼ確実」だとも「おそらく思われる」とも思えないのである。


※ ちなみに同書に書いてある、

長宗我部元親正室を利三の娘とする明らかな誤りを犯している

のは桐野氏は明記していないが『美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』である。


俺は利賢を利三の父とすることに全く同意できないのだが、なぜこれが支持されるのだろうか?桐野氏は根拠を示していないけれど、俺の知らない史料があって、そこに支持できる内容が含まれている可能性もないとはいえない。


気になるのは、既に書いたようにウィキペディア

斎藤道三・義龍父子2代に仕え、美濃山県郡に居住する。晩年は不明だが、天正14年(1586年)5月23日に死去。戒名は「金粟院殿雲洞宗暁禅定門」。

斎藤利賢 - Wikipedia
とあることで、俺はこの出典がわからない。もしそのようなことが書いてある史料が存在するなら検討する価値は大いにある。



あと気になるのは、『美濃明細記』で利三の祖父とされる利安が「白樫城」にいたことと、崇福寺」を建立したこと、及び利三の父の利賢が「白樫城」に蟄居していたということ。


白樫城は「春日局生誕の地」と宣伝されている。もしそれが事実ならば利三の家系と白樫城の関係は明らかということになるが、おそらく根拠となっているのは『美濃明細記』に利安と利賢が白樫城にいたとあるから利三も白樫城にいて、そこで春日局が生まれたのだという推測であろう。


ただし、どこまでが確実でどこまでが推測なのかが、ネットで調べた限りではさっぱりわからない。そもそも利安や利賢が白樫城にいたというのは確実なことなのだろうか?そこからしてわからない(もちろん利安・利賢が白樫城にいたことが確実であっても利三が利賢の子だというのが確実だということにはならないが)。


なお白樫城には「利安・利賢・利三の墓」があるという。ただし、説明によれば利三没後に村人が建てたものだという。
白樫城
これも詳細がわからない。もちろん後世に作られたものだから本物だとしても確かな証拠になるわけではないが、そもそも本当に三代の墓なのだろうかということすらわからないのである。



次に崇福寺だが、崇福寺といえば織田信長の墓」があることで有名だ。利三の祖父が崇福寺を建立したのだとすれば、因縁深い話ではある。ウィキペディアによれば

伝承によれば、鎌倉時代に創建。荒廃していたのを1511年(永正8年)に斉藤利匡の手で移転整備。1517年(永正14年)に改称したという。

別の説としては、1469年(文明元年)に、土岐成頼と斎藤長弘が建立し、1493年(明応2年)に開山したという。

崇福寺 (岐阜市) - Wikipedia
とある。「斎藤長弘=利安」だとすれば『美濃明細記』と合致する。『美濃明細記』に崇福寺に利安の位牌があると記されているが今もあるのだろうか?

江戸時代には朱印地となり保護を受け繁栄する。また、有栖川宮の祈願所となる。春日局と関係があることから、徳川家光は特に保護をしていたという。

と書いてある。「春日局と関係がある」とは利安が春日局の曽祖父だということだろうか?だとすれば確実ということになるけれど、崇福寺は信長の菩提寺であり、信長は家光の母の叔父であるからして「家光と関係がある」ともいえるわけで。


なお崇福寺の説明によれば

江戸時代になると、徳川家より32石をいただき、朱印地に指定された。三代将軍家光公の乳母、 春日局と当山七世慶甫和尚は、姻戚関係にあたり、家光公の色紙や、道中煙草盆等が現在まで残されている。

崇福寺の歴史
ということになる。これだけでは春日局と慶甫がどんな姻戚関係にあるのかはわからない。


同じく崇福寺の説明に

戦国から、江戸始めに活躍した西美濃三人衆の一人、稲葉一鉄公は、二世仁岫和尚の頃に、 小僧として当山で修行していたが、父子六人が戦いで亡くなったため、還俗し、侍として立身出世し、 梵鐘を寄贈したが、残念ながら太平洋戦争で供出したため、再鋳せざるを得なかった。

とあるので稲葉氏との関係という可能性も考えられる。春日局の母は稲葉氏だし、夫も稲葉氏、子も稲葉氏。


※ なお斉藤利匡は崇福寺の説明によれば「利安の子息」
寺宝・重要美術品


このように斎藤利三の父が利賢だとする根拠となる史料が存在する可能性は否定できないけれど、俺が現在知る限りの史料においては、父を利賢とするのは極めて疑わしいといわざるをえないのである。


そのことは斎藤利三が何者かということに重大な影響を及ぼすものである。俺が現在考える利三像は、利三は斎藤氏だったかもしれないけれど美濃守護代の斎藤氏と利三はそれほど濃い血縁関係にあるわけではないというものである。


そして利三の父が利賢と断定しないまでも、その方向で考えている現状では見過ごされていることが多々あると思うのである。