大津御所体制

今調べなければならないことが山ほどあって、土佐一条氏に関しては全く手付かずの状態なんだけど…


本能寺の変の前年に土佐「国司」の一条内政が追放された。

ところが天正9年(1581年)2月に、長宗我部氏家臣の波川清宗の謀叛に加わった嫌疑で伊予法華津に追放。同国の法華津氏や豊後大友氏に援助を求めるが、その地で病死した[4]とも、元親によって毒殺された[5]ともいう。天正8年5月に伊豫邊浦に放たれ、殺さると云ふ。[6]

一条内政 - Wikipedia


これは土佐国のローカルな出来事だったのか?それとも中央と連動したものだったのか?時期が時期なだけに織田信長の四国政策に影響された、あるいは影響を与えた可能性はないとはいえないと思う。ただし、その影響とはどんなものだったのかという肝心のことはわからないけど。


「惟宗」という人のツイート。惟宗氏は歴史学者らしいけれど本名不明(調べればわかると思うけれど)。

惟宗 ‏@KOREMUNE8

先ほどの私見に付け加えると、一条氏を推戴して国主に据えて元親を牽制しなければならないほど、信長、秀吉とも長宗我部対策に苦慮していたとは考えられません。しかも、「御所体制」の内実は、一次史料のみならず、二次史料からもわかっていません。二次史料から判明することは、体制と呼べませんし。

https://twitter.com/KOREMUNE8/status/507392808487903232


桐野作人氏のブログに桐野氏と惟宗氏の会話がある。
膏肓記 その後の直江兼続


この中で桐野氏は

ですから、元親が大津御所体制を解体したことは、土佐一条氏の否定であり、それはひいては摂関家一条氏の否定につながり、織田政権が定めた秩序体制への反抗ととられてもおかしくないと思います。

とコメントしている。


疑問に思うのは「一条内政追放=大津御所体制解体」なのか?ということ。いや本当にこの件に関して無知なので疑問に思うだけだけど。なお、一条内政自身も「天正元年(1573年)9月に父・兼定を追放して家督を継ぎ」とウィキペディアでは説明されている。


桐野氏の『だれが信長を殺したのか』には

信長死後、四国統一を目前にしながらもなお、元親は土佐一条氏の内衆とみなされているほどである。

と書いてある。だったら元親は大津御所体制を解体していないのではないか?(大津御所じゃなくて久礼田御所ではあるけれど)解体したので元親は土佐一条氏の内衆ではなかったが中央ではそう見られていたという意味だろうか?


しかしウィキペディアによれば

7代 政親

内政追放後、子・政親が家督を継ぎ、「久礼田御所」と称された(外祖父長宗我部元親の家臣久礼田定祐に養育されたことから)。戸次川合戦の後に摂津守に任官しているが、長宗我部氏滅亡後は京あるいは大和に退去したと言われ、その後の消息は不明である。土佐一条氏はここに絶えることとなる。

土佐一条氏 - Wikipedia
とあり、一条政親家督を継いでいるのだから大津御所体制は解体されていないし、長宗我部滅亡後に土佐を退去したとあることから、元親死後も存続していたのではないだろうか?


もちろん、それは形骸化されたものであって実質的には解体されていたのだ、という見方は可能なのかもしれない。だけどその根拠は俺にはわからない。



※ ところでウィキペディアには気になることが書いてある。

対外交易

土佐一条氏はその地理的条件を生かして、海上交通や対外貿易にも関与したと考えられている。戦前から戦後にかけて一時唱えられていた土佐一条氏の勘合貿易への関与説(野村晋域・山本大らの説)は、下村效の研究によって否定されたものの、1537年(天文6年)に本願寺証如が一条房冬の「唐船」造営に協力した経緯が証如の『天文日記』[7]に記されており、琉球王国李氏朝鮮との貿易が行われていた可能性が高く、更に勘合貿易以外のルートを用いた明との貿易や東南アジア方面との貿易の可能性も指摘されている。対外貿易に積極的であった大内氏や大友氏、伊東氏との婚姻も内外との貿易ルートの確保としての側面があったとする見方もある[3]。一条氏は直接的な軍事力こそ恵まれなかったものの、交易などをはじめとする領内の在地領主層の利益を擁護して国人・土豪の支持を得ることによって勢力を維持・拡大するための軍事力を確保することになる[4]。

こういうのを見ると、土佐一条氏は単に由緒正しき家系だから「お飾り」として推戴されていただけではないように思える。