一条兼定と一条内政の没年

一条兼定の場合

天正3年(1575年)キリスト教に入信し、宣教師ジョアン・カブラルから洗礼を受けた。洗礼名はドン・パウロ。同年7月、兼定は大友氏の助けを借り再興を図って土佐国へ進撃したが、四万十川の戦いで大敗し戦国大名としての土佐一条氏は滅亡した。その後は瀬戸内海の戸島に隠棲したが、旧臣の入江左近に暗殺されかけ重傷を負うなどの苦難にあった様子がアレッサンドロ・ヴァリニャーノの書簡などから伺える。天正9年(1581年)京都から長崎への帰路の最中ヴァリニャーノは兼定を見舞っているが、その際、兼定は熱心で信心深い信仰生活を送っており、ヴァリニャーノは感嘆したという[1]。

天正13年(1585年)7月1日に戸島で卒去。

一条兼定 - Wikipedia

 兼定の歿年は従来の説では天正3年となっていたが、キリシタン文献と高野山成福院の過去帳とによって、天正13年であることが判明した。墓は戸島に在るが、兼定の希望であったキリシタンとしては葬られていない。形の崩れた宝篋印塔が、小さな祠の中に祭られているのは哀れである。それでも、今なお島民の参詣が多いことで、兼定の霊魂は慰められることであろう。

四万十市歴史のロマン


従来の説では天正3年となってたものが天正13年になった。その経緯はまだ調べてないのでわからない。「旧臣の入江左近に暗殺されかけ重傷を負うなどの苦難にあった」というのは従来はそこで死んだと考えられたということか?『土佐物語』みたらこの後ほどなくして死んだとあった。

戸島で養生の日を送っていた天正9年(1581)ごろ、兼定は巡察師パードレ・ヴァリニアーニの一行が土佐沖を回って豊後に向う途次、不具の身でありながら面会し、大いに満悦したと伝えられている。

中世編-一条氏と宿毛
という話もあるのになぜ天正3年となっていたのか謎。


一条内政の場合

ところが天正9年(1581年)2月に、長宗我部氏家臣の波川清宗の謀叛に加わった嫌疑で伊予法華津に追放。同国の法華津氏や豊後大友氏に援助を求めるが、その地で病死した[5]とも、元親によって毒殺された[6]ともいう。あるいは天正8年(1580年)5月に伊予国邊浦に放たれて殺害されたともされる[3]。

一条内政 - Wikipedia

ところが、同記事の没年は

死没 天正13年6月5日(1585年7月2日)[2]

とあり

高野山成福院所蔵の『土佐一条家并長曽我部家過去帳』による。『一条家譜略』は天正8年2月15日(1580年2月29日)に逝去とし、『系図纂要』は同年5月に元親によって毒殺されたとするが、何れも疑問が残る。

と解説されている。つまりこちらの天正8年または8年説も疑問が持たれている。


そして『土佐一条家并長曽我部家過去帳』によれば兼定の死は天正13年(1585年)7月1日であり、息子の一条内政の死は天正13年6月5日と、父子の死は同じ年の6月と7月ということになる。


で、「過去帳」というものは「故人の戒名(法号法名)・俗名・死亡年月日・享年(行年)などを記しておく帳簿」であり、どこで死んだとか死因などは通常書いてないと思われ、すると

天正13年(1585年)7月1日に戸島で卒去

の「戸島で」というのはどこから来るのかといえば、兼定が戸島にいたという別の記録からだろと思われ。そして「兼定の墓」というものが戸島にあるということなんだろうけれど、経験上、この手の墓というのは本物なのかというのは疑問に思うところ。
市指定 一条兼定の墓 - 宇和島市ホームページ


もし『土佐一条家并長曽我部家過去帳』が正しいのだとすれば、「従来の説」の根拠となったものは根本的に見直さなければならないのではないかと思われ、安易に修正しただけでは史実とは全く違った物語ができてしまうかもしれず、特に父子(40代と20代)の忌日が近いというのは気になるところであり、単なる偶然かもしれないけれども、考える余地はあるのではないかと思う。


※ ちなみに天正13年は秀吉の四国攻めの年。


※ あとそれとはまた別の話だけれど『土佐一条家并長曽我部家過去帳』と一条氏と長宗我部氏が一まとめにされて、同じ高野山成福院に所蔵されていることの意味も気になるところ。というかむしろこっちの長宗我部氏と高野山の関係が気になって調べてたところ上の問題に気づいた。


(追記12/17)
一条内政天正13(1585)年6月5日没説はウィキペディアとそのコピー記事にしか見つけられない。辞典類では1580になっている。誤情報だろうか?しかし出典として『土佐一条家并長曽我部家過去帳』とまで書いてるから、いい加減な情報ではないように思われ。『過去帳』をどうやれば確認できるのだろうか?『土佐史談』あたりに書いてあるように思うけれど図書館に置いてない。『土佐史談』は重要な論文がいっぱいあるのに見るのが容易でないから困る。


もし『過去帳』に一条内政天正13年没とあるなら、兼定天正13年没は広く採用されているのに、なぜこっちは採用されないのか?内政の没年が疑わしいのなら兼定の没年だって疑わしいとなると思うのに、一方だけ採用されてるのはどういうことだろう?疑問だらけ。


(追記2/20)
説明不足のようなので追記。12/17の追記で言いたいのは「高野山過去帳記載の兼定・内政の没年は正しいのか?」とか「没年に疑問を持っている人は誰もいない」いうことではなくて、なぜ同じ史料の一方(兼定の没年)を採用している記事は多いのに、もう一方(内政の没年)を採用しているところがほとんど無いのか?ということ。本当に正しいのかはともかく、兼定の没年については『過去帳』が正しい、または正しい可能性が高いと考えている人は、同じ史料の内政の没年も採用してもよさそうなものではないか?


つまり(『過去帳』が信頼できる史料とはいえないとしても)それを採用して両者とも天正13年没としているのなら理屈として理解できるけれど、そうなっていないのは理解に苦しむということ。同じ史料なのに一方は信用できて、一方は信用出来ないということだろうか?それはご都合主義というものではないのか?ということ。


もちろん一つの史料の中に正しいことと正しくないことが書かれているというのは珍しいことではない。しかしそれを見極めるには、その史料とは別の信頼できる史料がなければならないのではないか?そういうものがあるのか?というのが疑問だということ。


ちなみに「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」の解説

一条兼定 いちじょう-かねさだ
1543−1585 戦国-織豊時代の公卿(くぎょう),武将

一条兼定(いちじょうかねさだ)とは - コトバンク

一条内政 いちじょう-ただまさ
1557−1580 織豊時代の公家。

一条内政(いちじょう ただまさ)とは - コトバンク


※ なお俺が念頭に置いているのは、「天智・天武非兄弟説」で、『日本書紀』によれば天智の生年は626年だが、天武の生年は『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』では622年で天武の方が年長だという。しかしたとえば『一代要記』の天智の生年は619年で『一代要記』という同一史料の中では622年生れの天武の兄であり長幼の順は逆転しないのである。
天智と天武の関係について
すなわち、これは天智が兄だとする史料の、天智の生年を無視して、天武の生年だけを採用して、それと『日本書紀』の天智の生年と比較して天武が年長だとしているのである。


それを踏まえて、高野山の『過去帳』において、兼定・内政がともに天正13年に没したことになっているのに、一方だけを採用して、一方は採用されないというのは、兼定・内政の本当の没年はいつか?という問題とは別に、そういう方法は適切なのか?重要な事を見落としてしまうのではないかということに俺の問題意識はあるのである。


※ なお『大日本史料』では兼定・内政の死はどちらも天正13年に記載されているようだ。没年が定まってなくてもどこかに記さなければならないわけで、一方を天正13年に記すなら、もう一方も天正13年に記すのは筋が通っている。だとしたらなおさらネット上で兼定天正13年没としているものは大量にあるのに、内政天正13年没と書いてるのはほとんどないというのはどういう理由なのだと疑問に思うのだ。みんなが独自に研究したというわけではないだろうから(単独または複数の)情報源となる書籍等があるのだろう。


内政が天正8(1580)年に殺されたという説があり、それを採用するのなら、それは同時に『過去帳』は信用できないので採用できないということでもある。だとしたら、その信用出来ない『過去帳』から兼定の没年だけは採用するという行動原理が俺にはどうにも納得できないのである。