素人の歴史研究について(その3)

何度でも繰り返すが俺は歴史研究の素人だ。歴史研究の専門家は、それでご飯を食べているのであり、歴史だけに関心を持っているのかもしれないけれども、俺の興味の対象は歴史研究だけではない。このブログのタグに「歴史と伝説」としてあるように、歴史だけではなく伝説・神話・物語にも興味があるし、その他にも興味がある。


そうした俺とプロの歴史研究者では話が噛み合わないなと思うのは、たとえば先の一条兼定と内政の没年について、プロの研究者は「兼定・内政の本当の没年はいつか?」という史実に感心が集中しているのに対して、俺は「ネットで検索すると兼定天正13年死亡説は多く見られるのに、内政天正13年死亡説は同じ史料に書かれていることなのにほとんどないのはなぜか?」ということにも興味があるのだ。


それは歴史問題というよりは現在の問題である。最新の歴史研究では高野山の『過去帳』の信用性に疑問が持たれているのかもしれないけれど、「ネットで検索すると兼定天正13年死亡説は多く見られるのに、内政天正13年死亡説はほとんどない」というのは厳然たる事実である。そんなことは「兼定・内政の本当の没年はいつか?」という歴史研究の課題にとってはどうでもいいことかもしれないけれども、俺にとってはそれ自体が興味の対象なのである。


また最近書いた「『祖父物語』で光秀が折檻された場所はどこか?」という問題も、プロの歴史研究者にとっては割とどうでもいい問題であろう。『祖父物語』は後世に書かれた軍記物であって史料としての信頼性は低い。『祖父物語』の記述でもって光秀謀反の原因を探るなんてことは、ほとんどありえないことだ。


でも『祖父物語』が歴史史料として信頼できようができまいが、この「物語」で光秀が折檻された場所はどこかという問題は、俺にとってはそれ自体が興味の対象となる。それは『竹取物語』という物語に「わが名はうかんるり」と書いてあるけれども、この発言をしたのは「くらもちの皇子」なのか「天人の衣裳をまとった女」なのかという問題に対して『竹取物語』は史実ではないからどちらでもいいなんてことにはならないのと同様のことなのだ。『竹取物語』の場合はこれを史実だと考える人はほとんどいないだろうから、そういうことは理解できると思うけれども、『祖父物語』は「歴史史料」でもあるし「物語」でもあるから話がややこしくなってしまうのである。