素人の歴史研究について(その4)

ツイッター上で俺の
一条兼定と一条内政の没年 - 国家鮟鱇
という記事が批判された。批判は大いに結構なのだが、一体何を批判しているのか理解できないので困る。


まず最初のツイートからして俺が言っていることを誤解していると思われる。


俺がここで関心を持っているのは「兼定・内政の本当の没年はいつか?」ということではなくて「兼定天正13年没説」そのものに関心を持っているのである。それがどのようにして成立し、これを採用している人は問題点についてどう考えているのだろうかということに関心があるのだ、


したがってそもそも兼定・内政の没年に異論があるのか無いのかなどということへの関心は二の次三の次なのであり「誰も疑問視していない」とかいったことは全く論じたつもりはないのである。


兼定天正13年没説」なるものはネットのデマで「そんな説は存在しない」という批判ならともかく、存在するのであれば批判されるいわれのないものだ。だから「誰も疑問視していない」などとは言っていないと返信したら、今度は


ときた。「誤読」とあるけれど「ネット記事や自治体史の記事のみで類推されておられる印象がありました」だ。しかしそこは誤読ではない。まさにネット記事のみで類推したものである。「誰も疑問視していない」とは言ってないと反論したのに対して、何でこんな返事が返ってくるのか理解に苦しむ。


そしてネット記事のみで類推した印象があると返事することに何の意味があるのかも理解に苦しむ。ネット記事のみで類推して記事を書いたら批判されるべきものなのか?そんなことは断じて無いと俺は思う。ネット記事のみで書いたのにそれを隠して「これが学界の定説だ」と書いたとかいうならダメだけど、ネット記事のみで書いていることはリンクも貼ってるし普通に読めばわかることだ。


ネット記事のみで書いたことが原因で間違ったことを書いているというのなら、その点で批判されることはあるかもしれないけれども、しかしこれだってネット情報だけで事実だと断定したわけではなく、過去帳を確認していないからウィキペディアの情報は誤情報かもしれないということまで念には念を入れて書いているのに。そして結果的には高野山過去帳兼定・内政が天正13年に没したと書いてあるというネット情報は事実だったんだから、何でそれで批判されなければならないのかわからない。もっともこれは俺が何について書いているのかを誤解しているから、こんな俺には理解不能な返信がきたのかもしれないけれども。


同様に「先行研究を参照なさらず」も意味不明だ。これも言われる通り俺は先行研究を参照していない。参照していないからこそわからない部分がある。そのわからない部分について書いたのがこの記事だ。わかっていたのならこんな記事は書かない。わからないことをわからないと書くことはいけないことなのだろうか?ネット上にそんな書き込みはいくらでもあるでしょう(検索すればすぐわかるようなことなら「ググレカス」とネットスラングで批判されることはあるけれど)。


俺があの記事で言いたかったのは、
1 兼定・内政天正13年死亡説は高野山過去帳を根拠としているというネット情報があるということ。
2 兼定天正3年死亡説というのがあったというネット情報があるけれど、天正9年に宣教師が兼定に面会した記録があるのに、なぜ天正3年説というものがあったのかが謎ということ。
3 ウィキペディア兼定天正13年に戸島で卒去とあるけれど、戸島という地名がどこから出てきたのかが謎ということ。もし「天正13年に戸島で卒去」という史料があるのなら13年死亡説には他にも根拠があることになるけれど、おそらくはそうではないだろうということ。
4 高野山過去帳を信用するのなら、二人の死は近接しているおり偶然ではない可能性がでてくるだろうということ。
5 『土佐一条家并長曽我部家過去帳』と一条氏と長宗我部氏の過去帳が一纏めにされていることの意味は何かということ。
6 過去帳を根拠にして兼定天正13年没説を採用する人は多くいるのに、内政天正13年没説を採用する人がほとんどいないのはなぜなのかという疑問


「謎」を「謎」として書いたまでで、その謎のうちいくつかは詳しい人なら知っていることかもしれないけれども、わからないことをわからないと書いてはいけないのだろうか?先行研究を読み込み、それでもわからないことがあったときのみブログに書くことが許されるということだろうか?そういう意味なら俺には到底受け入れることはできないけれども、本当にそういう意味なのか?


全く理解に苦しむのである。