『陰謀の日本中世史』について(その4)「愛宕百韻」について(1)

次に

しかし、これらの事件は現在では江戸時代の作り話と考えられている。(P206)

について。これは「怨恨説」の根拠となっている二次史料の記述のこと。確かにこれらは史料的に問題ある。ただし「作り話」とは

ないことをいかにも本当らしく作った話。また、事実ではなく想像で作った話。うその話。
作り話(ツクリバナシ)とは - コトバンク

という意味であり、特に「ないことをいかにも本当らしく作った話」ということは、作者は事実でないと知っていたということになる。「事実とは考えられない」というのと「作り話」というのとを比較すれば、「作り話」の方には意図的に事実を改竄したというイメージが強い。だが、このような話が出来た経緯について確かなことはわからないのではないか?「事実とは考えられない」と書けばそれで済む話ではないか?これと似たようなケースが歴史学者の書いた本に多数あることが俺は前々から気になっているのである。


次に、

 また桑田は愛宕百韻についても、光秀の元の歌は「時は今 雨が下なる 五月哉」であり、大村が光秀の野心の表れとして「時は今 雨が下しる 五月哉」と改竄したのではないかと推測している。(P210)

事件直後に書かれた大村由己の『惟任退治記』(天正10(1582)年)には

扨五月廿八日、登愛宕山、催一坐之連歌、光秀発句云、
 ときは今あめかしたしる五月かな
今思惟之、則誠謀反之先兆也、何人兼悟之哉、

すなわち、呉座氏が指摘するように

具体的にどう解釈できるのかは『惟任退治記』に示されていない

のである。この手の「陰謀」が効果を発揮するためには、受け取る側が意味を理解できなければならない。気付かれなければ意味が無い(呪術などの場合は別だが)。この前書いた「淀君」蔑称説と同じで、「淀君」で彼女を遊女として貶めているとして、読者がそれを理解できなければ意味がないではないか。


呉座氏は、

明智光秀は天下取りの野望を抱くような大物ではない、という主張は何の根拠も伴っておらず、桑田の個人的感想にすぎない。

と、桑田親忠氏の主張に対する総合的な批判はしているけれども、大村由己の陰謀だとする桑田説に具体的な批判は書いてない。これも「新書ゆえの制約」なのだろうか?それともこの部分は肯定しているということだろうか?


(つづく)