明智光秀の妹「御ツマキ」について(その2)

奈良興福寺の僧の英俊が記した『多聞院日記』の天正9年8月21日の条に

去七日・八日ノ比歟、惟任ノ妹ノ御ツマキ死了、信長一段ノキヨシ也、向州無比類力落也

とあることは諸研究書に記されるところ。惟任(明智)の妹の「御ツマキ」が去る7-8日のころに死んだ。信長「一段のキヨシ」である。向州(日向守光秀)は比類なく力を落としているという意味。ここから(1)光秀には「御ツマキ」と呼ばれる妹がいたこと。(2)信長が「一段のキヨシ」であったことが注目された。


勝俣鎮夫氏は「ツマキ」を「妻姫」と読み、「一段のキヨシ」を「一段の気好し」と解釈し、光秀の妹は信長お気に入りの側室で、彼女の死により信長と光秀の関係が疎遠になり、本能寺の変の遠因になったとした。


このうち「ツマキ=妻姫」説については支持するものは殆どいないと思われ、「ツマキ=妻木」説が有力。光秀妹がなぜ「妻木」と呼ばれるのかについては諸説あるけれど、『兼見卿記』に光秀妹の「妻木」、または光秀姉の「妻木」が登場する。また、光秀の妻は明智氏と同族の土岐妻木氏だというのが通説で、明智氏と妻木氏の親密は関係からも「妻木」だと推察される。


一方、「キヨシ=気好し」説の方は今でも多く支持されていると思われ、池上裕子氏などは著書『織田信長』の中で勝俣氏の説を自己の論証なしに紹介していて、よく知らない人が読んだら定説と理解するかもしれない。藤田達生氏の『明智光秀: 史料で読む戦国史』(2015)は「光秀推定人脈図」に「女(御ツマキ〈妻木〉、信長側室)」と記す。


桐野作人氏は「キヨシ=御旨」とし「信長も格別に悔やみの言葉を伝えた」と『だれが信長を殺したのか』で解釈している(今もそうなのかは知らない)。谷口研語氏は『明智光秀』で桐野説を無理があるとし「気好し」説を支持している。俺の見る限りでは桐野氏を除けば全て「キヨシ=気好し」説。ただし、谷口研語氏は

この女性については、信長の側室と見る意見が多いがどうだろうか。安土城の奥向きを束ねるような地位にいたのかもかもしれない。

と主張しており「気好し」説も一様ではない。また、俺の知る限りでは「気好し」説が圧倒的に支持されているけれども、そもそもこの件に言及しているのは信長・光秀・本能寺の変研究者のごく一部であって、その他の研究者がどう考えているのかは不明。


さて、俺の見るところ、この問題に関しては、上に記した「御ツマキ」という名前についての諸説、および「キヨシ」の解釈が論点になっており、中でも「御ツマキ」とは何かに関心が集中しているようであり、『多聞院日記』自体の解釈よりも、妻木という女性が出てくる『兼見卿記』あるいは『言経卿記』の「ツマキ」その他の史料の検証、ならびに当時の女性の呼称がどのようなものだったのかという考証(ツマキが妻木という名字だとすれば「御」は不自然など)に集中していると思われ。


しかしながら俺は、『多聞院日記』の記事にはまだまだ考察すべきことが多々あると思うのであり、それらの問題点について触れられているものが無いことに不満を覚えているのである。


(つづく)