明智光秀とチマキとツマキ(その3)

再び桐野作人氏の2007/03/15付の記事「膏肓記 拙著本日から発売!」のコメント欄の桐野氏のコメント。

ここに「ツマキ」が登場します。
言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をしたときに、その流れで二条御新造にいる女房衆にも挨拶したというのは十分ありえますね。というか、それが儀礼的な慣習でもあります。
となると、「ツマキ」は信長付きの女房衆ということになりますから、勝俣鎮夫氏の信長の「キヨシ」(気好)だった側室という解釈があてはまるのでしょうか。

これは事実認識に誤りがある。


『言経卿記』に見る織田信長: ありエるブログによれば

二日、言経は再び二条御所へ出向くが、信長とは会えず、粽を貰って皆帰宅した。同日、言経の妻と子の阿茶丸も信長の所へと行く。父言継が亡くなったが、「家領」を変わりなく保証するということであり、言経は「祝着」と書いている。但し、言経らに会わなかったように、妻と阿茶丸も信長には会えていない。「顔面ニ腫物」とあるが、体調には問題がなかったらしく、信長は翌日には「前右府(信長)早朝ニ江州ヘ御下向云々」と近江へ出立している。

であり、「言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をしたときに、その流れで二条御新造にいる女房衆にも挨拶した」ではなく、言経の妻と子の阿茶丸が二条御所へ出向いたという話である。


その時に信長は彼女たちと面会しなかったけれども「老父御逝去、然者家領無別儀之」との言質を貰ったのである。しからば「言経が信長に家督相続の御礼の挨拶をした」のでもなければ、言経の妻が「御礼の挨拶」をしにいったのでもないと思う。訪問した真の目的は家領安堵だったかもしれないけれど、名目上は別の理由で訪問したのだと思う。


一応は信長が上洛したので挨拶しにきたということが考えられるけれど、女性がそういうことするのか疑問。信長に阿茶丸を披露するという名目かとも思う。ただしこれも何で妻が?とは思う。


最近『戦国を生きた公家の妻たち』(後藤みち子)という本を読んだ。この本は主に摂関家のことが書かれているけれども、その他公家にも応用できるかもしれない。たとえば

尚道正妻は家妻として、家長への取次役という役割から、家長の代行をすることができたのである。

とか。また

戦国時代の五摂家の正妻たちは、婚家と実家にかかわりのある人びとを中心とした範囲内で交流している。

というのも山科家などにもあてはまるのかもしれない。とすると言経の妻にも、女性のネットワークがあって信長の女房衆にもメンバーがいるのかもしれない。そこに働きかけて家領の保証を得ることに成功した可能性がある。


言経の妻は冷泉為益の娘。言経の母は葉室頼継の娘。また同道している「薄女房衆」は言経の弟で薄以緒の養子となった薄諸光の女房衆。また少し遠いけど言継の養母は中御門宣胤の娘(寿桂尼の姉妹)。これらに連なる人物が織田家家中にいたのかもしれない。とすればそれこそが「近所女房衆ツマキ・小比丘尼・御ヤヽ等」のことなのかもしれない(ツマキが人名だとするなら)。


なんてことを思ったりする。

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