『兼見卿記』と明智光秀の病気(とカオス)

光秀と関係のある女性「妻木」は『兼見卿記』にも登場するという。図書館で確認せねば、でもこの前行ったばかりだからしばらく行けないなと思ってたら、そういえば昔コピーしたのがあったかもしれないと思って探したらあった。天正7年4月と9月、および天正8年正月の「妻木」確認。


それはそれとして、光秀と粽の件で検索してたら八切止夫の『信長殺し、光秀ではない』がヒット。光秀が粽の包みを取らずに食べたのは、櫃比では眼疾で、笹の葉は眼疾に効果があるとされてたから食べたのだというようなことが書いてあった。面白い。まあ違うと思うけど。なお粽のエピソードは愛宕百韻の時で「笹ごと喰ったのは謀反心のあった証拠だというが」と書いているのは、俺の知ってるのと違う。検索すると確かにそういう話もあるらしい。さらに検索するとどうやら頼山陽の『日本楽府』のようだ。
(追記11/1『信長殺し』をよく見たら『日本外史』のようだ。『日本楽府』にもあるけど)


光秀が眼煩だというのは『多聞院日記』の天正9年8月の記事にもある。そしてこの8月21日の条に「御ツマキ」死去のことが書いてある。そして『信長殺し』によると、〈曲直瀬道三の治療日誌〉の「天正四年六月二十三日」に「眼労、惟任日向守」という記載があるんだそうだ。しかしソースがソースだけに確認する必要があるだろう。たとえばその後に書いてある『多聞院日記』の内容は何かの引用のようだが原文ではなくて要約だ。


で、「光秀 曲直瀬道三」で検索すれば何かわかるだろうと思って検索してみたらカオスだった。Google ブックで上田滋という人の『本能寺の変』という本がヒットする。『兼見卿記』によれば光秀は「六月」に京へ戻り曲直瀬道三の治療を受けたという。24日には光秀の妻が兼見を訪ねて病気平癒の祈祷を依頼、26日に信長から病気見舞の使者が来て、7月に兼見は坂本へ見舞っているという。『兼見卿記』で確認しようと思ったら天正4年6月にそんな記事はない。他で調べたら「六月」ではなく「5月」だった。


『兼見卿記』5月に確かに書いてある。何の病気かはわからない。上田氏の本には「(眼病だったとともいわれているが)」と眼病は異説として紹介されている。この説が何によるのかわからない。「曲直瀬道三の治療日誌」に書いてあるなら信用できそうなものなので、そもそも「曲直瀬道三の治療日誌」なるものが本当にあるのか怪しくなってくる。


なお、「光秀の妻が兼見を訪ね」とあるけれど、原文では「惟日祈念之事自女房衆申来」。「女房衆」を「妻」と訳して良いものだろうか?


ところが「K'sBookshelf 資料 本能寺の変 年表 天正三年〜天正九年」という年表にも

光秀室、吉田兼見に光秀の病平癒の祈祷を依頼する。【兼見卿記】【明智光秀のすべて】

とある。『明智光秀のすべて』にそう書いてあるのだろうか?


気になったので他のも調べてみる。すると『明智光秀』(谷口研語)に

五月二十六日の夜、光秀の室が、大中寺某を使者として、

とある。これも原文は「惟日女房衆」。『明智光秀』(高柳光寿)には

そして二十四日には光秀の妻は吉田兼見を訪問して

とある。みな「女房衆=妻」とみなしてるようだけど、それでいいのか?



なお『明智光秀』(谷口研語)に

光秀の病はかなり重かったらしく、六月十二日には光秀が病没したとの噂が山科言継の耳に入っているが、

とある。「国立国会図書館デジタルコレクション」の『言継卿記 第4』(国書刊行会 大正3-4)の天正4年6月の記事にはそのようなものは無いのではないかと思うが、これは何によるものだろうか?眼病でそれほどの重病になるとは思えず、よって眼病説は退けられるということなんだろうか?これがあるか無いかで病状の印象が大きく異なる。


一体どうなってるんだろう?