そもそも「女房衆」とはどういう意味なのか?

(注 最下部に追記あり


いや、すごい基本的なことで「今さら人に聞けない○○」みたいな感じなんだろうけれど、わからないものはわからないので書いとく。


この際「女房」とは何かということは置いとく。完全に理解できてるか自信はないけど、それを説明してるものはあるから。たとえば
女房(にょうぼう)とは - コトバンク
とか。問題は「女房衆」


「女房衆」というからには「女房」の複数形だと思う。普通はそうですよね。それ以外の使用法があるのだろうか?


たとえばAKB48AKB48のメンバーの集合を言うんだと思う。メンバーの1人を指す場合は「AKB48のA」と呼ぶと思う。二人の場合は「AKB48
のAとB」。20人いる場合は何と呼ぶんだろう?「AKBのみなさん」?。ちょとわからない。


「女房衆」の場合は全員いなくても複数いれば「女房衆」でいいんだと思う。でも1人の場合は?「女房」なのか「女房衆のA」と呼ぶのか?「女房衆」というグループの1人という意味では「女房衆のA」の方が適切か?


では単に「女房衆」とだけ書いてある場合は?


それで一人の人物を指す場合があるのだろうか?そこがわからない。


『兼見卿記』天正4年5月24日に

惟日祈念之事自女房衆申来

とある。これを「光秀の妻(または室)が」と解釈することには大きな違和感がある。でも複数の学者がそう解釈している。ということはそういう解釈が可能だということなのだろうか?


もっと重要なのは『兼見卿記』天正4年10月10日に

惟日女房衆所労也、

とあることで、これをもって光秀の妻(一般に妻木煕子と呼ばれる)が病気になったと解釈されていること。次に同月24日に

惟日女房衆所労験気也

とある。つまり快方に向かっているということ。さらに11月2日に

惟日女房衆所労見廻罷向、惟日面会、

という記事がある(この解釈がまたカオスなんだが本筋に関係ないので略)。


ところが『西教寺塔頭実成坊過去帳』によれば天正4年11月7日に光秀の妻は死去したという。なお『細川家譜』によれば6月7日死去だそうで、この場合は「女房衆」が光秀妻であるはずがない。※ウィキペディア情報だけど
妻木煕子 - Wikipedia


もっとも光秀の妻がいつ没したかはの定説は無いというのが学会の見解ではあろう。ただ、『兼見卿記』の記事は、確定するのは無理だとしても一つの仮説を立てるときに、その状況証拠になりえるのだろうか?


「女房衆」が「女房」の複数形なら、同時に複数の女房が病気になったということ。不思議な感じはするけど、伝染病や食中毒ならありえるだろう。「所労」が疲れの意味なら激務でダウンしたとも考えられなくもない。


もし食中毒や伝染病だったら、光秀の妻も罹患してそれが原因で死んだということもありえるかもしれない。そういう解釈がされているのならばありえるかもしれないけれども、俺の見た限りでは「女房衆」=「光秀妻」と解釈しているとしか思えない。


結局のところ問題は「女房衆」で1人の女性を指す場合があるのか?ということ。


誰かご存じありませんか?


(追記 20:00)
どうも「女房衆=妻(室)」でいいみたい。大日本史料総合データベースで検索したら「信雄御女房衆煩付而」とか「仏光寺女房衆遠向云々」とかあるから。恥かいた。でも勉強になった。