明智光秀の妻の病気と死
『兼見卿記』の天正四年十月十四日の条に、惟日女房衆、すなわち光秀の妻が病気になったので平癒の祈祷を兼見のところへ依頼して来ている。
「十月十四日」とあるけれど、『兼見卿記』には
十日、(略) 惟日女房衆所労也、祈念之事申来、祓・守礼持参見廻了、
とあり、10日のことであって日付が違う。『明智光秀』(谷口研語)には
十月十日、光秀は室の病気平癒の祈念を兼見に依頼し、兼見はお守り、お祓いをもって見舞った。
とある。高柳氏の単純ミスか?『明智光秀―謀叛にあらず―』(大栗丹後)に
とあるのは「史家」(高柳氏)を参考にしたものだろう。
一方、高柳氏の『明智光秀』に
それからまた十一月二日の条には、兼見はこの女性の病気見舞のため光秀の京都宿所へ行って光秀に面会している。
とある。原文では
二日、 向村長、惟日女房衆所労見廻罷向、惟日面会、
谷口氏の『明智光秀』だとこれが
十一月二日には室の見舞いに坂本へ来た兼見と面会している。
とする。
とも書いているから、11月2日にも坂本にいたと考えたのだろうか?しかし兼見は「村長(村井長門守、貞勝)」の所に行って、光秀妻の所に行って、そのあと三条西実枝の病気を見舞い、勧修寺晴右(翌年正月逝去)を訪問し、帰宅しているので、坂本に行ったとは考えられない。なお『兼見』10月27日に
惟日在京也、罷向、
とある。ちなみに『ここまでわかった! 明智光秀の謎』(『歴史読本』編集部 2014)では早島大祐氏が
十月二十七日には「女房衆所労」のために光秀も上京し、十一月二日まで在京していた(『兼見卿記』)。
と書いている。光秀上京の理由は「女房衆所労」のための可能性は高いだろうが、『兼見』にそう書いてあるわけではない。また『兼見』から11月2日に京にいたと考えられるけれども、「十一月二日まで」なのかは『兼見』ではわからない。11月7日に坂本で光秀妻が死去したのなら、「二日まで」かはともかく妻を同伴して坂本に帰った可能性はある。そう推理したということだろうか?
なお『兼見』には光秀妻の死亡記事がない。この年に京都で死んだのなら書かないはずがないと思うので、坂本で死亡したという西教寺過去帳の記事は正しいのかもしれない(京都にいて死んでない、または坂本にいて死んでない、という可能性もあるけれど)。
(追記11/1)上と同じ『ここまでわかった! 明智光秀の謎』(『歴史読本』編集部 2014)の大田糺一という人の記事にも
とあり、ここでも10月14日になっている。高柳光寿氏の影響力強し。