妻木氏の謎(その2)

書き忘れてたことがあるので、まずそれを追加。

 

妻木の八幡神社の棟札に

大檀那 藤衛門尉源廣忠 花押 永祿二(己未)年五月二十八日

 

慶長十三年 大檀那傳入賴忠 花押 願主 妻木雅樂介源宗賴

 

とあり(『岐阜県土岐郡妻木村史 』)。これはかなり信用できる史料ではないかと思われる。すなわち「傳入」=「頼忠」

 

諸情報を総合すれば、妻木藤衛門尉廣忠の子は頼忠であり、『寛永譜』の「貞徳」は誤りと考えられる。

 

寛永譜』で「頼忠」とされている「長門守」「法名 宗鉄」は、実は「頼忠」の子であると考えられる。『寛政譜』に

今の呈譜、家頼に作る

とあるので、彼の本当の名は「家頼」かもしれない。ただし『寛政譜』に「雅樂助」とあるので、上の願文の「雅樂介宗頼」が本当の名前かもしれない(「家」と「宗」のどちらかが誤記かもしれない)。その子がおそらく「頼利」であろう。

 

よってウィキペディアに「妻木貞徳」とある人物は、実は「妻木頼忠」であろうと思われる。

ja.wikipedia.org

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/02/%E5%A6%BB%E6%9C%A8%E8%B2%9E%E5%BE%B3.jpg

 

この肖像画には「長寿院殿卜庵亀公居士之肖像」と書いてあるが、諱は「頼忠」であろう。

 

そして、「妻木頼忠」とされている人物が妻木頼利の父の「家頼(または宗頼)」ということになるだろう。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/69/%E5%A6%BB%E6%9C%A8%E9%A0%BC%E5%BF%A0.jpg

 

「瑞松院殿前長州大守崑岳宗鉄大居士寿像」と書いてある。

 

要するに、系図提出の際に「諱」を間違えてしまったのではなかろうか

(本当かどうか知らないけど西郷隆盛の「隆盛」は実は父親の諱だったという話があるが、そんな感じだろうか)

 

これで諱の謎は一応解決したのではないだろうか。ただしまだ謎は残る。

 

※たとえば『寛政譜』によれば頼忠(実は「家頼または宗頼)は元和9年10月20日に死すとある(『寛永譜』では「元和九年、死す。」)だが上の肖像画に「元和九癸亥仲穐良辰」とある。「元和9年中秋(8月15日)吉日」という意味ではないか?「大居士寿像」とあるから既に故人ということではないだろうか?いやそのへんあんまり詳しくないのだけど。

 

※ あと、じゃあ「貞徳」は誰なんだ?という問題も残る。『寛永譜』に「元和四年、死す。七十五歳。」とあり、後に「今の呈譜元和六年八月九日死す年九十五」と修正されてるが、元和4年に75歳で死んだ誰かが実在してそうな感じはする。

 

そして、当然ながら明智光秀との関係が大いに気になるところだが、それはまた別の話。

 

 

(追記1/13)

dl.ndl.go.jp

岐阜県土岐郡妻木村史』に上の肖像画「妻木城主傳入頼忠像」「妻木長門守像」として載せられている。