斎藤利三の謎(その5)利三の父について

今まで確認した史料は『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『柳営婦女伝系』『美濃国諸家系譜』『美濃明細記』。


『美濃明細記』以外は斎藤利三の父を「伊豆守」とする。『美濃明細記』には記載なし。


名前は『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『柳営婦女伝系』では「某(それがし)」
美濃国諸家系譜』では「利賢(右馬尉?)」、『美濃明細記』では「利賢(右衛門尉)」


「利賢」の父は『美濃国諸家系譜』では「利胤」、『美濃明細記』では「利安」。ただし「利安」が殺された享禄3年に「長弘」という者が殺されたとする説を紹介し、さらにその「長弘」というのは崇福寺桂岳宗昌(=利安=実は長弘)の子の勘九郎で、勘九郎が本当は「利安」だというややこしい説を載せる。


※ あと『蜷川家古文書』を追加で確認。

斎藤伊豆守 法名金栗院宗曉
内室 蜷川大和守親俊妹也、法名道哉

※『だれが信長を殺したのか』(桐野作人)によれば、他に『岐阜縣古文書類纂』という史料があるそうだが、岐阜県まで行かなければ見れないっぽいので無理。



利三に関する系図は(A)『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『柳営婦女伝系』『美濃国諸家系譜』『蜷川家古文書』と(B)『美濃国諸家系譜』『美濃明細記』の2グループに分けられると思われる。


伊豆守の名が「某」のグループと「利賢」とするグループということになるが、それだけではなく「利賢グループ」のは『美濃国諸家系譜』は利三の母を明智光秀の妹とし、『美濃明細記』は明智光継の娘で光秀の叔母としており、光秀と利三の血縁を主張しているところが共通している。「某グループ」においては『寛政譜』が「蜷川親順の女」、『蜷川家古文書』が「蜷川親俊の妹」とあり両者は同一人物であろう。


※『美濃明細記』の利三の母が明智光継の娘で光秀の叔母というのは、光秀の父を光継といい、その父が光継とする説があるので、利三の母は光秀の父の姉か妹ということになるんだろう。つまり利三と光秀は従兄弟になる。


※なお『徳川実記』には

これは明智日向守光秀が妹の子斎藤内蔵助利三が女にて。

東照宮御実紀巻九
とあり『美濃国諸家系譜』と同じく利三は光秀の甥になる。既に書いたが光秀享年55歳だとすると計算が合わない。67歳説その他を採用しているか、計算していないかのどちらかだろう。ウィキペディアには

斎藤利三明智光秀の年齢差を考えると、妹ではなく姉だとする説もある。

斎藤利三 - Wikipedia
とあるけれど、姉だと書いてある史料が存在するわけではないように読み取れる。


※利三の母が光秀の叔母だったり、妹だったりするのは、そういう説が別個にあったとも考えられるけれども、光秀の妹説が先にあり、光秀享年55歳だとすると無理があるので、ウィキペディアで「姉だとする説もある」と誰かが推測したように、「妹とあるのは実は叔母なのでは?」と昔の誰かが推測したという可能性があるようにも思える。


※ついでにウィキペディア

父は斎藤利賢、母は蜷川親順(室町幕府重臣蜷川氏)の娘という説がある。親順の孫となる蜷川親長の妻は、利三の姉妹であり、系譜上の錯誤の可能性がある。

とある。親順の娘が利三の母ということは親俊の妹であり、妹の娘が親俊の息子の親長の妻になるということはつまり「いとこ婚」ということになる。別におかしなことではなく、それでなんで「系譜上の錯誤」という話が出てくるのか不思議。


考えなければならないことが山ほどあるので、記事が散漫になりがち。


(つづく)