斎藤利三の年齢について。『寛政重修諸家譜』によれば天正10年(1582年)に没す。享年49歳。逆算すれば天文3年(1534年)生まれ。織田信長と生没年が同じ。
明智光秀の生年は不明。『明智軍記』に載る光秀の辞世に「五十五年の夢」とあるので、そこから逆算して享禄元年(1528年)生まれとされる。利三より6歳年上。
『だれが信長を殺したのか』(桐野作人)によれば光秀の妹が利光の生母とする系譜類が多いそうだが計算が合わない。もっとも光秀の生年は『当代記』の付記によれば光秀は永正12年(1515年)生まれであり利三よりも19歳年上となるので妹が利三を産めないこともない。
『寛政重修諸家譜』によれば母は蜷川親順の娘。蜷川親順の長男が蜷川親世。その長男が蜷川親長(道標)。親長は土佐に下向して長宗我部元親の庇護を受けた。親長の弟は利三の父の養子となる(斎藤親三)。親三の妻は利三の兄の石谷頼辰の娘。石谷頼辰のもう一人の娘は長宗我部信親の妻となり、その娘は長宗我部盛親の妻となる。斎藤利三の妹は親長の妻となる。いつ結婚したのかわからないけれど天正10年以前だとしたら土佐には長宗我部元親の正室と親長の妻の二人の妹がいたことになる。斎藤・石谷・長宗我部・蜷川はめちゃくちゃ濃い関係。
なお土佐郡布師田(高知市)の金山城に石谷民部少輔重信という人物がいる。この人物は頼辰と同じ出自の石谷氏だが別家だという(『長宗我部元親のすべて』山本大)。土佐と美濃の繋がりはこの人物が関係しているのかもしれない。『土佐物語』によると元親の父の国親のときに長宗我部に降ったという。弟に工文将監という人物がいる。
利三の父は『寛政重修諸家譜』によれば
伊豆守 今の呈譜にはじめ伊豆守のち豊後守利忠(としただ)に作る
とある。しかし『だれが信長を殺したのか』では「諱はおそらく利賢だと思われる」と書いてある。このあたりどうなっているのか勉強不足。
利三の父が何者なのかはよくわかってないみたいだけれど、かなり重要なことであり、史料が不足しているから確かなことは言えないとはいえ様々な可能性を探ってみる必要があるのではないかと思われる。
(つづく)