明智光秀の生年

話は横にそれるが明智光秀の生年について。


既に書いたけれど光秀の享年が55歳だというのは『明智軍記』に書かれていることで、この史料は信用性が乏しいとされている。『明智軍記』は元禄年間(1688-1704)に書かれたとされている。確かな根拠(たとえば辞世の句が本物であるとか)があったかもしれないし、滅亡した人物の年齢などわからなくても仕方のないことで、大体見た目55歳くらいだったんじゃね?という感覚を当時の人が持っていて、それが伝承されたという可能性もある。全くのデタラメという可能性もある。


ウィキペディアの注には、

西教寺過去帳』『明智軍記』では没年が天正10年(1582年)6月14日の享年55、『細川家文書』では生年が享禄元年(1528年)8月17日)。これ以外の説には『綿考輯録』の大永6年(1526年)、また『当代記』の付記による永正12年(1515年)などもある(谷口克広「信長と消えた家臣たち」 中公新書(2007年) ISBN 978-4-12-101907-3)。

明智光秀 - Wikipedia
とあり、享年55になる史料は他にもあるらしい。西教寺は近江坂本にあり光秀と強い繋がりがあり、光秀一族の墓もここにある。生年を知ってた可能性は大いにある。細川家は娘のガラシャが嫁いでたから、やはり生年を知っていた可能性は高い。ただし、いつ作られた史料かわからない(谷口氏の本は未読なんでそこに書かれてるかもしれないが)。『明智軍記』によった可能性もある。


『綿考輯録』も細川家の家史だが成立年が安永7年(1778年)に成立したもの。『明智軍記』のことは当然知っていただろうから、あえて異説が書かれているのは確かな証拠があったからという可能性もあるけれど、編者が何らかの情報を元に推測したという可能性もある。


『当代記』は寛永年間(1624-1644)の成立。光秀生存中に接触した人がまだ生きていた時代。主な筆者(編纂者)は松平忠明(とウィキペディアにはあるけれど学界では大いに疑問視されている)。なお忠明自身は天正11年生まれ。
当代記 - Wikipedia
松平忠明 - Wikipedia
一番信用できそうにも思えるが、「『当代記』の付記」というのがよくわからない。


近代デジタルライブラリーで見たら

同十三日に相果、跡方なく成、(于時明知歳六十七、)

百姓等に被打殺、(歳六十七、)

と「史籍雑纂」でみれば同じページに二度同じことが付記してあるのは不思議。これを誰がいつ書いたのかは不明。なお本文も付記も「明知」となっている。よくわからん。個人的には先に書いたように利三の母が光秀の妹と言われているから、「このくらいの年齢だったんじゃね?」って感じで決められた可能性もあるんじゃなかろうかとも思う。


※なお「67歳」と書いてあるのが根拠なら永正13年(1516年)生まれだと思うのだが…
(ネット上ではウィキペディアを参照してるのか永正12年(1515年)生まれとか享年68歳としているもの多し。俺は『当代記』を全部見たわけではないから自信はない。そう書いてある箇所もあるんだろうか???)


長男の光慶は永禄12年(1569年)生まれとされ、享年55歳なら42歳の時の子、享年67歳なら54歳の時の子(ちなみに後継者がなかなか生まれなかった豊臣秀吉は天文6年(1537年)生まれだとすると秀頼が生まれたのは57歳の時、早世した鶴松が生まれたのは53歳の時)。ただしこれには、ルイス・フロイスの報告書で長子(享年13歳)としているのは弟の自然丸のことだという谷口研語氏の異論もある。


明智光秀の娘のガラシャは永禄6年(1563年)生まれとされている。光秀享年55歳なら36歳の時の子、享年67歳なら48歳の時の子となる。『明智軍記』によるとガラシャは三女。長女は『明智軍記』によると永禄12年(1569年)に16歳で明智左馬介光春の妻になったということだから天文23年(1554年)生まれ。光秀享年55歳なら27歳の時、享年67歳なら39歳の時の子で、これが最初の子ということになるのだろう。


子が出来た年齢から光秀の年齢を推測するのはちょっと難しい感じ。67歳説だと39歳で最初の子というのは遅いような気もするけれど、実は意外とそうでもなかったりもする。そこのところを論じると話が本題から遠ざかってしまうので、これでおしまい。