斎藤利三の謎(その4)利三の父について

寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』『柳営婦女伝系』には斎藤利三の父は「某」と記されており「伊豆守」を名乗ったとする。『寛政重修諸家譜』には

伊豆守 今の呈譜にはじめ伊豆守のち豊後守利忠(としただ)に作る

とあり「法名宗曉」とも記されている。


『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』の説明に

美濃国諸家系譜』には伊豆守利賢(としかた)とある。

と書かれている。で、その『美濃国諸家系譜』は俺のとこの図書館には置いてない。東京大学史料編纂所ウェブサイトで公開されているという。


が、これってどうやって使えばいいんだ?なんか1ページごとにクリックしなければならないみたいなんだけどこれでいいんだろうか?超めんどくさいんだけど…


とりあえず「斎藤之系図」というのを約200回クリックして保存した。

TIFFって形式がWindowsフォトビューアーでなら見えるんけどLeeyesだと見えない。検索してやり方試したんだけどなぜか上手くいかない…

あきらめてWindowsフォトビューアーで見る。

活字じゃないので読みにくい

ウィキペディアの斎藤利賢の項目を参照する。
斎藤利賢 - Wikipedia

利賢 ○○○○尉 伊豆守 母ハ稲葉備中守越智通以女也

と書いてあるようだ。○○○○が読めん。「斉藤右馬」と書いてあるように見えるが。父は「利胤 ○○和泉守 新五郎」。「○○」はやはり斎藤か?



ついでに『美濃明細記』こっちは近代デジタルライブラリーにある。こっちは活字だから助かる。

利賢 斎藤右衛門尉
欲亡父仇道三、頼藝不許、故白樫蟄居 利賢の孫女春日局依願利賢子孫在江戸御旗本

「父の仇の斎藤道三を亡ぼしたいと欲するが、美濃守護の土岐頼芸が許さなかった。故に白樫(揖斐郡揖斐川町白樫)に蟄居した。利賢の孫娘の春日局の願いによって利賢の子孫は旗本となり江戸にいる」ということだろうか。


父は『美濃国諸家系譜』では利胤だが『美濃明細記』では利安。

長井藤左衛門、號崇福寺桂岳宗昌、位牌在于崇福寺
始池田郡白樫城居之、移文殊移長良崇福寺建立、後稲葉山麓居之、今長井洞と稱す(小熊本願寺掛所之地也、又掛所南と云)享禄三年正月十三日家臣西村勘九郎弑之。
或曰、享禄三年西村所弑長井藤左衛門長弘は桂岳宗昌長弘之子勘九郎、後右衛門尉利安也と云々。汾陽寺記永正十四年書册に長井越前守長弘判云々。

なんかややこしい。斎藤利安は家臣の西村勘九郎に殺された。利賢の父の仇は斎藤道三だから「西村勘九郎斎藤道三」となるが、よく知られているように斎藤道三の来歴は見直しがなされている(俺はあまり詳しくないが)。


「ある説」によれば、「西村」という者が「利安」を殺したのは合っているけれども、「西村」の名前は「勘九郎」じゃなくて、殺された方の名前が「勘九郎」であり、その「勘九郎」の諱は「長弘」と言われているけれども、実は「長弘」は父の諱であり、「勘九郎」の諱は「利安」である。


ややこしいんで整理すれば、「被害者=桂岳宗昌=利安(=長弘)」ではなくて「被害者=桂岳宗昌(=長弘)の息子=利安=勘九郎」ということになるってことではないかと思われ、書いてても頭がこんがらがってくる。さらに「西村勘九郎斎藤道三」のはずが「西村某」になっちゃうので、それが道三のことなのか、道三の父親のことなのかわからないのはもちろん、それじゃあ「西村勘九郎」なる人物はそもそも実在しないのではないかって、もうわけわからん。

ウィキペディアでは

家臣筋の長井新左衛門尉(斎藤道三の父)に殺されて死去したといわれる(長弘とも)。

長井利安 - Wikipedia
と書かれている。「長井新左衛門尉」ってのは一体どこから出てきたのか?それはまた別の史料なのか?単に斎藤道三の父が「長井新左衛門尉」だというのが有力だってことで、殺したのは道三じゃなくて父だと推測した上で「西村勘九郎」を「長井新左衛門尉」と入れ替えただけなのか?


なんか疲れたので今日はここまで。