斎藤利三の謎(その7)利三の祖父について(1)

本能寺の変と信長の四国政策を考えるに当たっては斎藤利三とは何者かといことを考察する必要がある。そのためには利三の父や祖父が何者なのも考察しなければならない。


美濃国諸家系譜』『美濃明細記』では利三の父を「利賢」とする。『寛政譜』等では「某」とする。同一人物かもしれないが別人かもしれない。別人だとすれば父の父すなわち祖父も別人になる。


『寛政譜』等についても検証しなければならないが、まずは「利賢」の父について。『美濃国諸家系譜』『美濃明細記』は利三の父を「利賢」とする点では一致しているが、その父について『美濃国諸家系譜』は「利胤」とし『美濃明細記』では「利安」とする。「利胤」は大永元年(1521年)に48歳で死去、「利安」は享禄3年(1530年)に殺されたとされ、その他の点も全く異なるから別人に違いない。


さらにいえば『美濃明細記』では「利安」とされているけれど、享禄3年(1530年)に殺されたのは崇福寺桂岳宗昌(=利安)ともいい、崇福寺桂岳長弘の子の利安ともいい、しかも後者の利安は長井長弘という名で伝えられているけれど本当は斎藤長弘の子の利安だと言っていると解釈できるのである。で、利賢が利安の子であるというのは、崇福寺桂岳宗昌(=利安)の子という意味であろうと思われるので、後者の方を採用すれば「利安」は父ではなくて兄弟になる可能性もある(この場合利賢の父は「利永」になるかもしれない)。さらにさらに言えば、享禄3年(1530年)に殺されたのは長井長弘という人物で、利安とは別の人物なのに何らかの理由で混同された可能性もあるわけで、すると利安は殺されていない可能性すらある。もし利安が殺されていない、または利安が利賢の兄弟の場合は、利賢が「父の仇」の斎藤道三(利安の項では西村勘九郎)を亡き者にしようと考えるはずもなく、どれを採用するかで話が全然違ってくるのである。


なお『寛政譜』によれば利三は斎藤道三の娘を最初の妻としたとあり、『美濃明細記』の第一の説とつなげれば、利三は祖父の仇の娘を妻にしたことになる。戦国の世ではありえないことではないとはいえ、既に書いたように『寛政譜』等の「某」を父とするグループと、「利賢」を父とするグループは相容れない可能性があるので安易につなげることはできない。


利三の父とされる「利賢」の父が「利安」とされる説において、その利安の死がどのようなものであったのかは、利三を考察する上ではあまり重要ではないだろう。ただし、このように諸説あって定まらないという点は重要であると思われる。


(つづく)