斎藤利三の謎(その9)斎藤利賢について

美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』において斎藤利三の父は「利賢」とされている。この利賢が『寛政譜』等にある「某 伊豆守」と同一人物なのかという点において、個人的には大いに疑問に思うわけだが、その点はひとまず置いておく。


その利賢が『美濃国諸家系譜』においては利胤の子とされ、『美濃明細記』においては利安の子とされる。その違いは単に父については異説があるというに留まらない。父が違えば「利賢は何者か」という点も異なってくるのだ。


『美濃明細記』では利賢の父の利安は家臣の西村勘九郎に殺されたことになっている(ただし異説も載せる)。そして利賢については

欲亡父仇道三、頼藝不許、故白樫蟄居

としているのだ。父を殺したのは西村勘九郎だから「西村勘九郎斎藤道三」ということになる。西村勘九郎斎藤道三が同一人物なのかについては現代の研究では疑問視もされているけれど、ここではそれは重要ではない。重要なのは利賢の父が『美濃国諸家系譜』のいう利胤だった場合には、父が別人なので当然のことながら利賢の父は西村勘九郎(道三)に殺されていないということになる。


だとすれば、父の仇を討とうとして、美濃守護の土岐頼芸に阻止されることもなく、それが原因で白樫(揖斐郡揖斐川町白樫)に蟄居することもないのである。さらに、なぜ利賢が白樫に蟄居するのかといえば、「父」の利安の説明に

長井藤左衛門、號崇福寺桂岳宗昌、位牌在于崇福寺

始池田郡白樫城居之、移文殊移長良崇福寺建立、後稲葉山麓居之、今長井洞と稱す(小熊本願寺掛所之地也、又掛所南と云)享禄三年正月十三日家臣西村勘九郎弑之。

と書かれているように利安の居城が白樫にあったからなのであり、利賢の父が利安ではなく利胤であったならば、利賢が白樫という土地と関係があるのかさえ怪しくなるのである。


ところでウィキペディアの「斎藤利賢」の記事を見ると

斎藤 利賢(さいとう としかた、生年不詳 - 天正14年5月23日(1586年7月9日) は、戦国時代から安土桃山時代の武将。通称は右衛門尉[1]。官位は伊豆守。美濃白樫城主。父は斎藤和泉守利胤[2](または長井斎藤利安[1])。母は稲葉備中守通以(越智)女[2]。妹は明智光安室[2]。

妻は蜷川親世の妹(蜷川親順の娘、後に離縁して石谷光政妻)、明智光秀の叔母(明智光継(宗善)の娘。後妻)[2]。子に石谷頼辰[2]、斎藤利三[2]、斎藤三続、娘(蜷川親長室)。養子に斎藤親三。春日局稲葉正成継室)の祖父にあたる。

斎藤道三・義龍父子2代に仕え、美濃山県郡に居住する。晩年は不明だが、天正14年(1586年)5月23日に死去。戒名は「金粟院殿雲洞宗暁禅定門」。
脚注

^ a b 『美濃明細記』
^ a b c d e f 『美濃国諸家系譜』

斎藤利賢 - Wikipedia
とある。既に書いたように『美濃明細記』と『美濃国諸家系譜』は両立させることが困難であるから、「美濃白樫城主」とするのは父が利安の場合であり、また「母は稲葉備中守通以(越智)」とあるのは父を利胤とした場合であり、利安とした場合には違う可能性が高い。また「妻は蜷川親世の妹」とあるが、これは『寛政譜』系の系図に書かれている「某」の妻であって『美濃明細記』と『美濃国諸家系譜』にはそもそもそんなことは書いてない。故に「明智光秀の叔母」が「後妻」とあるのも利賢と某を同一人物として『寛政譜』と合成した場合のことである。なお『美濃明細記』では「光秀の叔母」ではなくて妹。


しかしもっとも問題なのは、

斎藤道三・義龍父子2代に仕え、美濃山県郡に居住する。晩年は不明だが、天正14年(1586年)5月23日に死去。戒名は「金粟院殿雲洞宗暁禅定門」。

と書かれているところで、『美濃明細記』では

欲亡父仇道三、頼藝不許、故白樫蟄居

と書かれているのだから、斎藤道三に仕えたとは到底思えないのである。また『美濃国諸家系譜』には利賢が誰に仕えてどこに住んだのかといった説明は一切ない。


斎藤道三・義龍父子2代に仕え」も「美濃山県郡に居住する」も「天正14年(1586年)5月23日に死去」も『美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』に記載が無いだけでなく『寛政譜』系の系図にも載っていないことなのだ。一体この情報源はどこにあるのだろうか(もっとも俺は全ての系図を見たわけではないのだが)。ウィキペディアには出典が書いてない。なお、

戒名は「金粟院殿雲洞宗暁禅定門」

については、「某」の「法名」として『寛政譜』に「宗暁」、『蜷川家古文書』に「金粟院宗暁」とある。もし「利賢」の「戒名」が「金粟院殿雲洞宗暁禅定門」と書かれた史料があるのならば「某」と「利賢」は同一人物である可能性が高くなるかもしれないけれど、出典が何かという肝心なことがわからないので非常に困るのである。


ところで「戒名」というけれど、『寛政譜』『蜷川家古文書』には「法名」と書いてある。俺は詳しくないのだがウィキペディアの「戒名」を見ると

浄土真宗では、「法名」が正式な名称である。(詳細は、「法名 (浄土真宗)」を参照。)
日蓮宗系(日蓮正宗を除く)では、「法号」が正式な名称である。

戒名 - Wikipedia
美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』に利賢の「戒名」は書いてないけれど、利安のところには、「崇福寺桂岳宗昌」とあり「号」である。崇福寺臨済宗。細かいことだけど多少気になる。