茂木健一郎氏と山本一郎氏の対談を読んで

茂木健一郎先生と小保方問題その他で対談したんですが、話が噛み合いませんでした(山本 一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

個人的には両人とも俺はあまり評価してなくて興味の対象外なんで普段はろくに記事も読んでないんだけれど、この記事は最初の部分を見て面白そうだなと感じた。


問題点は多岐にわたるので絞り込んで感想を書いてみる。

茂木:うーん、僕はただプリンシプル(基本原則)を書いているだけのつもりなんですけどね。日本の言論スペースって、みんなすごく空気を読むのがうまいんですよね。誰も彼もが空気に沿った発言をする。

今回の小保方さん学位問題にしても、池田信夫さんがブログに「早稲田大学が小保方氏の博士号を取り消さなかった処分については、茂木健一郎氏以外のすべての大学関係者が批判しているが……」みたいなことを書かれて「ええ! 俺以外みんな批判しているんだ」と驚いたんです。まあ、池田さんもすべての大学関係者に意見を聞いたわけじゃないだろうけど。でも、確かに今回の小保方さんの学位の問題について、ほとんどの大学関係者は早稲田大学を批判していた。僕に言わせれば、その構造がすごく不思議なんですよ。いろんな意見の人がいていいはずなのに、しかも大学のような本来であればもっとも自由な発言が許される場所にいる人たちが、付和雷同というか、世間の空気に沿った同じ意見を述べている。これはどう考えてもおかしいですよ。

俺は茂木氏のことをトンデモだとは思わないけれど、それに近い人だとは思ってる。だけど、ここで主張しようとしていることにはとても共感する。


ただし、言いたいことはわかるけれど説明がおかしい。


何がおかしいかというと「空気を読む」の部分。みんなが大学を批判しているのは空気を読んでいるからではなくて、空気を読んでいないからである。


「取得の過程で不正のあった博士号を取り消すべき」というのは極めて正論である。


世の中にはいろいろな意見の持ち主がいるけれども、不正な手段を使うということが良いことだなどという人は極めて少ないだろう。早稲田大学を批判する人はもちろん擁護する人だって、それが「良いことだ」なんて言う人はゼロもしくはいたとしても極少数なのは疑いない。ほぼ全員が「良くないことだ」と言うだろう。


「不正な手段を使うことは悪いことだ」というのは、いつでもどこでも通用し、誰もが反論することが困難な絶対的・
普遍的な論理なのである
。そして「不正な手段を使った者は処罰されるべきだ」というのも普遍性を持った考え方なのである。


しかしながら、正論ではあっても総合的に考えて、それを自動的に適用することが別の問題が発生させる等の理由により困難な場合というのが往々にしてあるのである。


それに対して「そんなの関係ない」と原理原則を適用することを迫るのが「空気を読まない」ということではないか。すなわちこの件に関して早稲田大学を批判している人というのは「空気を読む人」ではなくて「空気を読まない」人なのである

しかも大学のような本来であればもっとも自由な発言が許される場所にいる人たちが、付和雷同というか、世間の空気に沿った同じ意見を述べている。これはどう考えてもおかしいですよ。

と茂木氏は言うけれど、これはちっともおかしなことではないのである。たとえば「1+1=2」は絶対的な論理なのである。誰もが「1+1=2」だと同じことを言っているからといって、それは「空気を読む」ということにはならないのである。


※ なお既に何度も書いていることだが左翼リベラル言う「自由」とは、意見の多様性を確保するための自由ではなくて、絶対真理に到達するための自由である。左翼が好む「自分の頭で考えよう」というのは、自分の頭で考えれば「正しい答え」に到達するという意味であり、自分の頭で考えれば「ホメオパシーに効果はない」という結論に至るのはもちろんのこと「反原発」になるのも必然のことであり、そうならないのは「まだ自分の頭で考えることができてないから=他人の妄言に支配されているから」ということになるのである。


そういうわけで、俺は茂木氏の言わんとしていることには共感するけれども、早稲田大学を批判している人は空気を読む人ではなくて、空気を読まない人であって、逆に茂木氏が空気を読む人なのである。すなわち

茂木:小保方さんのキャリアに関しては、僕はそれほど知らないんですよ。興味もない。ただ、大学が一つの結論を出した以上、その結論は尊重しようよというだけの話です。それに、小保方さんがしたとされるキャリア形成の仕方が、日本の研究職だけに見られる特殊な現象かと言えば、そんなことはないですよね。世界中のありとあらゆる組織で起きている話です。それに男が特定の女に対してひいきして便宜を図るだけでなくて、女が特定の男に対してする場合もあるし、男が男に対してする場合もある。もちろん女が女に対してする場合もある。山本さんは、そうした行為を批判しているわけですよね?

「大学が一つの結論を出した以上、その結論は尊重しようよ」というのが「空気を読む」ということである、


※ なぜ茂木氏が「空気を読む」ということを真逆のことに適用したのかは謎だが、その理由の1つには「空気を読むのは悪いことだ」という今の日本(特にインテリ世界)を覆う「空気」があるからではないかと思われ。



ところで、俺が思うのは、なぜ早稲田大学があのような結論を出したのかということだ。いや正確には理由そのものには興味はない。興味があるのは「普遍的・絶対的な正論」があるにもかかわらず、現実世界ではそれに反する結論が出されることが往々にしてあるということだ。「普遍的・絶対的な正論」があるのならば、それを適用すればいいではないか。


もちろん「人を殺してはいけない」「物を盗んではいけない」というのは我々にとって「普遍的・絶対的な正論」ではあるが、それを犯す者は絶えることがない。したがって早稲田大学もまた正論に従わないならず者が牛耳っている可能性は考えられる。しかし俺はそう簡単に決め付けることはできないと思う。だって早稲田大学にだけ特殊な人間が集まっているというのは考えにくいことだから。


すなわち、現実にこの判断をした人達ではなくて、別の人が判断をすると仮定しても同じ判断になった確率が高いのではないかと思うのである。もちろん人が違えば違う判断をする可能性というのも少なくはないけれども、大学関係者の思考が大学によって著しく異なっているというのは考えにくいのではないか。


これは常々思っていることだけれど、ある企業や役所やらが不祥事を起こす、あるいは適切な対応をすれば防げたかもしれないことが防げなかった、あるいはある集団から「明らかに間違った判断・間違った対応」などと弾劾されることが良くあるが、それはその企業や役所になぜか著しく特殊な人が集まってしまったのか、それともそのようなことはなくて、誰がやっても(批判している当人がやっても)同じことになる可能性が高いことなのかということを考えるべきであろう。


※ たとえばリフレ派が日銀無能論を主張する。しかしなんで日銀に無能な人材が集まるのだろうかということが俺にはさっぱり理解できない。日銀には優秀な頭脳が集まっているはずだ。特に無能な人材を集める理由がわからないではないか。日銀が無能ならば日本の金融・経済関係者・評論家も無能なのではないか?いやもちろん日銀に無能が集まってしまった可能性は否定できない。けれども日銀批判者は日銀だけを批判しているかもしれないけれど、同じような理屈で他の人は早稲田大学無能論、理研無能論等々、ことあるごとに無能論を展開しているのであり、それらを総合すれば、世の中無能ばかりになってしまうのであり、無能ばかりの世の中で特定のところに無能がいるのは当たり前だということになってしまうだろう。で、中にはそのことに気付く人もいる。いるけれどもその中には「彼らは実は優秀なのだ、何か邪悪な理由があって、何が正しいかを知っているのに間違ったことをするのだ」という陰謀論に陥る人が後を絶たないのである。