斎藤利三の正体(その0)

しばらく間があいたけれど再開。タイトルも変える。


今まで書いてきたことは、要するに美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』の利三の出自は全く信用できないということ。


したがって美濃国諸家系譜』と『美濃明細記』は無視すべきである


いやもちろん絶対に事実ではないという保証はない。しかしながら無視しないと、斎藤利三は何者かという問題に取り組むときにある固定観念から脱却できないのではないかと思うのだ。それによって大事なことを見落としてしまうのではないかと思うのだ。だから『美濃国諸家系譜』などに事実が含まれている可能性を捨てきれないにしても、あえて無視することが必要ではないかと思うのだ。


斎藤利三についてまず確実だと思われるのは美濃国と縁があるということだ。ただし縁があるといってもどんな縁があるかというのは幅が広い話である。


ところで一昨日深夜にテレビを見ていたら北海道VS沖縄みたいな番組をやっていて、沖縄代表として小島よしおが出ていた。ところが番組の中でもつっこまれていたけれど、小島よしおは沖縄生まれだけれど千葉育ちだそうだ。「じゃあ沖縄県人じゃないじゃん、千葉県人じゃん」みたいなことも言われていたけれど、そうはいっても沖縄には何度も行っていたようだし、2ヶ月ほど暮らしたこともあるそうだ。


土地を離れたらそのまま縁が切れてしまう人もいるけれど、土地を離れても、あるいは本人は生まれも育ちも別の所であっても、両親や先祖のいた土地と繋がりがあるということは珍しいことではない。


斎藤利三の妹が養女になったという石谷氏は美濃土岐一族で美濃国方県郡石谷村より起こったというけれども、代々室町幕府の奉公衆を務めており京都に定住していたのだろう。石谷光政は頼辰に家督を譲った後は紀州根来の智積院にいたと思われ「帰郷」していない。石谷家の収入源はどこにあったのかわからない。美濃に領地があったのだろうか?
例の石谷家文書によれば少なくとも収入の一部は京淀の座中からの塩公事で、また京都七口の一つ木幡口を知行していたことがわかる。石谷氏が美濃に縁があることは疑いないけれど、石谷氏自体は京都人というべき存在であろう。
林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー - 株式会社 林原


斎藤利三についていえば、『美濃国諸家系譜』などで父が斎藤利賢で祖父が斎藤利安あるいは利胤などという話に重きを置けば、美濃国守護代斎藤氏嫡流に非常に近い人物ということになり、美濃生まれで美濃育ちの生粋の美濃人で、信長傘下になるまでは美濃以外とはあまり関わりが無い人物のように感じられてしまう。


しかし、そういう系図を無視して『寛政譜』等の記述に重きを置けば全く違った人物像が見えてくるように思えるのである。