斎藤利三の謎(その8)利三の祖父について(2)

ここで諸系図の成立について書いておく。


・利三父「某」グループ
寛永諸家系図伝

徳川幕府第三代将軍家光の命により、幕府は寛永18年(1641年)から、若年寄太田資宗(総裁)、儒者林羅山(編纂主任)に諸大名・旗本以上の幕臣の諸系譜の編纂事業を行わせた。まず諸家に対して、素材資料となる各家の系図や家譜および証拠資料(古文書)等を提出させた(呈譜)。

寛永諸家系図伝 - Wikipedia


寛政重修諸家譜

徳川家光の代に編纂された『寛永諸家系図伝』の続集にあたる。寛政年間に幕政においては老中・松平定信の主導する寛政の改革が実地され、内政上の問題や対外的緊張から幕政の刷新を図っており、幕府初期の精神に立ち戻るため文教振興が行われていた。『寛政譜』の編纂は定信とも交流のあった近江堅田藩主で若年寄の堀田正敦が発案し、寛政11年(1799年)に正敦を総裁として、林述斎らが中核となって編纂された。各大名家・旗本からの提出記録を元に、校訂が行われた。国主・領主をはじめ御目見以上の士について、寛政10年(1798年)までの事跡を記す。

寛政重修諸家譜 - Wikipedia


『柳営婦女伝系』
不明。CiNiiに菊池彌門とあり。
⇒[http://ci.nii.ac.jp/ncid/BA76871990:title=CiNii 図書 - 柳営婦女傅系]
菊池彌門は幕臣
柳営秘鑑 - Wikipedia


『蜷川家古文書』
太田南畝編 文字通り蜷川家の古文書であろう。
「蜷川家古文書」(蜷川系図)


・利三父「利賢」グループ
美濃国諸家系譜』
不明
加賀国江沼郡起源の山岸氏について ─併せて、『美濃国諸家系譜』の紹介─ 宝賀  寿男


『美濃明細記』
伊東実臣著 元文3年(1738年)



「某」グループが利三の関係者が提出した史料に基づくものと考えられるのに対して、「利賢」グループは美濃の地誌を記す中で美濃斎藤氏について書いたものだと考えられる。


簡単に結論を出すことはできないけれど、利三の父を「利賢」とし、祖父を「利胤」、「利安」とするのは、そのような系図が存在していたというよりも、著者等が「調査・推理」して「某」に該当しそうな人物を当て嵌めた可能性が高いのではないかと俺には思えてならないのである。