信親「信」字拝領は本当に天正6年なのか?

従来、長宗我部元親の嫡男弥三郎が織田信長から「信」字を拝領したのは天正3年のこととされていた。ところが「石谷家文書」の発見により天正6年のこととなった。その理由は12月16日付石谷頼辰宛て長宗我部元親書状で「信」字拝領されたことの感謝を斎藤利三に飛脚で申し入れたと書いているからである。この書状には荒木村重討伐のことが書かれており、これにより天正6年のことであるのは疑いない。ゆえに「信」字拝領は天正6年のことであり疑う余地はありえない。と、考えられている。元親書状は一次史料だからそう考えるのも尤もなことだ。


しかし、俺はそこにあえて疑問を持ってみる。といっても元親書状が偽物だという意味ではない。これはほぼ間違いなく本物だ。では、なぜ疑問を持っているかということを以下に説明する。


既に書いたように、従来「信」字拝領は天正3年のこととされてきた。その根拠は『本能寺の変 史実の再検証』(盛本昌広)によると、『土佐国蠧簡集(とかんしゅう)』(1725年頃成立)所収の信長から弥三郎に宛てた書状の写で、注記に

右高知の雨森九右衛門蔵、今按ずるに、天正三乙亥、人を惟任光秀に遣し、名字を信長公に請う、公一字を授け、これを名づくるに信親とし、且は左文字の佩刀及び駿馬を賜う

とあるという。すなわち確実なものではなくて推定だったわけだ。
土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)とは - コトバンク


で、あるなら天正6年に決まりではないか、となるところではあるけれど…


この『土佐国蠧簡集』の書状は、『土佐物語』(1708年)にも載っており、

対惟任日向守書状令披見候、仍阿州面在陣尤に候、弥可被抽忠節事肝要候。
次に字の儀、信遣之候、即信親可然候、猶惟任可申候也。
十月廿六日 信長 朱印
長宗我部弥三郎殿

年次は書いてないけれども、前後の記事から天正3年のことと考えられる。


また『南海通記』によれば、

信長公被加制詞土州元親記

天正六年ノ夏。三好山城入道笑岩ヨリ、信長ニ訴ヘケルヤウハ、土州長宗我部己カ威ヲ恣ニシテ公儀ヲ懼レズ、阿波國ニ攻入リ、南方二郡ヲ押領シ、笑岩カ本領美馬三好二郡ヲ掠ム。己モ信長公ノ幕下ナレハ、笑岩カ本領ヲ犯スヘキコトニ非ス。畢竟上ヲ蔑ニスル狼藉人ナリ。制止ヲ加ヘラレズンハ後日天下ノ禍害ヲナスベシ、早ク御裁断ヲ仰キ奉ル由ヲ言上ス。信長公聞玉ヒテ謂レアル申状也即制止ヲ加ヘラルベシトテ其書ヲナシテ土州ニ下シ玉フ。其文躰厳重ニシテ私ノ兵革ヲ起ス事ヲ制止ス。阿州南方ニハ、長宗我部氏ト遺恨ノコトモ有ユヘニ是ヲ赦宥ス其外、阿波讃岐伊豫ハ信長ノ幕下ノ國ナレバ、必ズ私ノ弓矢ヲ取カクベカラズ。若違犯セシメバ土州ニ征伐ヲ加ヘラルベキ也トノ下知ナリ。元親コレヲ聞テ承引ノ意ナクシテ曰、昔我人ニ先立テ信長ニ候ズ。尫弱(おうじゃく)の身ナリト云ヘトモ、四國ヲ平治シテ信長ノ御敵ノ根ヲ絶シ、忠節ヲ致サンコト乞フ。是ニ由テ御威アツテ嗣子彌三郎ニ信ノ一字ヲ賜ル。今何ノ故ニ先約ヲ變シ玉フヘキ。コレ唯佞人ノ言シ妨グルナルヘシ、元親カツテ忠ヲ忘レズ此四國ヲ平治シテ信長公ノ御先ヲ仕ランコトヲ欲ス。此旨ヲ以テ宜シク申シ洩サレ給フベキ也トの返翰トゾ聞ヘケル。

とあり、「信」字拝領は「天正六年ノ夏」より前のこととされている。


※ なお『元親記』にも「信」字拝領について書かれているが年次は書かれていない


このように複数の史料が「信」字拝領は天正6年より前のこととしている。もちろんこれらは二次史料であり、一次史料と二次史料が矛盾している場合、一次史料を採用するのが当然のことである。


しかしながら、なぜ二次史料が天正6年のこととしていないのか?を考察する価値はあるだろう。


で、俺は考察した結果、一見すると一次史料と二次史料は矛盾しているように見えるけれど実は矛盾していないという可能性があるのではないかと思い至ったのである。


それは、石谷家文書」の元親書状は天正6年に「信」字拝領があったこと示すものではない可能性があるということだ。そのことは、もし『土佐国蠧簡集』や『土佐物語』の言うように天正3年に「信」字拝領があったのだとすれば、斎藤利三に感謝の意を3年後の天正6年にしたということを意味する。


そんなことはあり得るだろうか?普通はありえない。しかし、俺はそれを天正6年にする理由が元親にあったのではないかと考えるのである。


『南海通記』は「天正六年ノ夏」の記事に、それより前にあった「信」字拝領のことを記す。天正6年は元親が利三に書状を出した年である。これは偶々なのだろうか?


俺は偶然ではないのではないかと思う。『南海通記』における元親の言い分は、要するに『「信」字拝領の時のことを思い起こしてください』ということである。元親は「四國ヲ平治シテ信長ノ御敵ノ根ヲ絶シ、忠節ヲ致サンコト乞フ(四国を平定して信長の敵を滅ぼし忠節をいたすことを請う)」ことを誓い、それによって、弥三郎は「信」字を拝領したのだ。ところが(元親視点では)信長は政策を変更して、土佐と阿波南郡以外の領有を認めず撤退せよと命じてきたのだ。元親はそれを承服できなかった。それが『南海通記』によれば天正6年のことなのだ。『南海通記』における天正6年の元親にとって「信」字拝領は非常に重要な意味を持っているのだ。


そして、この『南海通記』の記事を信用して、石谷家文書の元親書状を考察すれば、別の解釈も可能になるのではないかと思うのである。


すなわち、天正6年に長曽我部元親は斎藤利光に数年も前の「信」字拝領について感謝の意を述べた。その意図するところは「あのときの経緯を思い出してください」ということであると。


まあ、大半の人は「何をバカなことを」と思うであろうことは承知しているけれども、俺はそういう可能性は捨てきれないと思っているのである。


そして、さらにいうなら、これこそが本能寺の変の動機を解明する糸口になる可能性があるのではないかとさえ思うのである。