- (原因はそれだけではないにせよ)石谷家文書の発見で四国説は確定的
- 「御所体制」は石谷家文書によって確認できる
- 元親嫡男の「信」字拝領は天正6年
- 信長が「四国は切り取り次第」を認めていたのは確か
- 天正9年一条内政追放「御所体制」崩壊
- 天正9年6月信長に「事実上の断行宣言」(と考えられていた)
- だが石谷家文書に「闕字」が使われているのでその後も上下関係が続いてた。
- 一方では天正9年7月に伊予金子氏と同盟、毛利氏と協調「芸土入魂」。
- 四国政策変更は秀吉の画策(秀次が三好康長の養子だったため)
- 元親にとって秀吉は不倶戴天の敵
というようなことをおっしゃっていたように思う(ただし録音してたわけではないので俺の勘違いがあるかもしれないので要注意)。