大津御所体制(その2)

(その1)

渡邊大門氏の『信長政権』(河出書房)によると秋澤繁氏が論文の中で

信長は元親の四国統一と大津御所体制を承認し、摂関家一条内基が大津御所体制の後援者であったことを重視

していて、その理由は

信長が元親と大津御所体制を二重に統制できるからであった

と指摘しているという。それに対して中脇聖氏が「大津御所体制」そのものが史料の裏付けが不十分だとした上で

信長(のちの秀吉も含めて)が「大津御所体制」を長宗我部氏の統制に利用する理由が十分に検討されていない。

と批判しているという。


このように意見が割れているけれど、その基礎にある考え方は「大津御所体制というものが存在するのだとしたら、それは信長に長宗我部氏の統制のために利用されただろう」(大津御所体制が存在しないのだとしたら利用されるはずもない)ということではないかと思われる。



しかし、俺が「大津御所体制」なる言葉を聞いて思ったのは、それとは全く異なることだった。


土佐一条氏についてウィキペディア

土佐国幡多郡を拠点とした戦国大名で、五摂家一条家が、応仁の乱を避けて中央から下向したことに始まる。

土着後も土佐国にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。次第に武家化し伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれ、断絶した。

土佐一条氏 - Wikipedia
と説明する。


土佐一条氏は土佐の国人の盟主的存在だった。長宗我部元親もその国人の1人である。軍事力では元親が圧倒していたけれど一条氏を上に頂いていた。なぜ一条氏を滅ぼすなり追放するなりして元親が国主にならなかったのかはわからない。つまり一条氏を利用するためにあえて滅ぼさなかったのか、それとも滅ぼすことが困難だったのかがわからないということ。


後者すなわち滅ぼしたくても滅ぼせない事情があったとした場合、外部(信長等)の圧力があったという可能性はある。だが、そうではなくて内部事情による可能性もある。土佐の武将達が元親に従うのは、元親が一条氏を補佐する立場であったからであり、一条氏がいなくなったら土佐国内の統制が困難になるということだったのかもしれない。


そこで思うのは土佐一条氏の権威の源泉は何だったのかということだ。土佐一条氏の本姓は藤原氏で、五摂家一条家の分家である。名門である故に権威があったのは疑いのないところだろう。


ただし、土佐一条氏の権威が及ぶのは土佐国内だけであるように思われる。たとえば将軍足利義昭は京を追われて備後鞆にいたけれども、諸国の大名に対して影響力があった。しかし土佐一条氏の権威はあくまで土佐国内だけのものだろう(いや良くは知らないんだけど)。


そこでさらに思うのは、長宗我部元親土佐国内だけではなく阿波南部などにも進出していたことだ。


もし土佐一条氏の権威が及ぶ範囲が土佐国内だけだとしたら、阿波南部を支配する長宗我部元親はその権威の下にいるということになるのだろうか?土佐一条氏の下に元親がいるのだからイエスと言える可能性もあるけれど、土佐を領する元親は土佐一条氏の下にいるけれど、阿波を領する元親はその範囲外だという可能性もあるのではないか?一個人が複数の地位を有するというのはヨーロッパなどでは良くあることではないだろうか。独立した王であると同時に別の王の諸侯でもあるとか(あまり詳しくないけど)。


もしそうだとするならば、元親の阿波・讃岐・伊予への進出は土佐では一条氏の下にいる元親が「大津御所体制」から脱却するためのものではなかったかと思うのである。つまり「大津御所体制」は元親を統制するためにではなくて、逆に「外征」のきっかけになったものではないかと思うのである。


※ 土佐一条氏自体が伊予に外征していたことを考えると、一条氏の権威が土佐国内に限定されるものかという問題はあるけど。


ところで豊臣秀吉は外征を行った。その理由が何だったのかは諸説あって定まらないけれど、実質的に日本の国王であった秀吉の上には天皇がいて、秀吉が天皇を超えることは不可能であった。それを打開するために外征をして日本以外の国を支配する必要があったということが理由の一つだった可能性があるのではないかとも思うのである。