「長宗我部元親と信長、元は仲良し?」という朝日記事について
⇒長宗我部元親と信長、元は仲良し? 本能寺4年前の手紙:朝日新聞デジタル
文書から見つかった手紙は、1578(天正6)年に元親の家臣中島重房らが詳細不明の「井上殿」に宛てたものとみられていたが、東京大学史料編纂(へんさん)所が赤外線写真で撮影した結果、緊密に連絡を取り合っていた光秀の家臣の斎藤利三と石谷頼辰とに宛てたものとわかった。
このことは2月の講演会で聞いていた。
⇒最新研究報告「石谷家文書について」
「東京大学史料編纂所が赤外線写真で撮影した結果」とは内池・浅利両氏が東京大学史料編纂所に出向いて機材を借りて撮影したということではなかったかと思う。メモ取ってないからうろ覚えだけど。
さて歴史史料には一次史料と二次史料がある(説明は略)。長宗我部信親の「信」の字が信長から拝領したものだとか、信長が長曾我部元親に「四国は切り取り次第」と認めたとかいった話は二次史料によって今まで言われてきた。しかし一次史料で確認されたのは今回が初めて。そこに意義があるのであって「何を今更」みたいな反応は的外れ。
今回、元親が「信」字拝領の礼をした天正6年の書状が発見された。これにより通説では天正3年とされていたものが実は天正6年だったことがわかった(とされる)。
この記事の書状はその天正6のもの(谷忠澄・中島重房書状・天正6年11月24日)。明日発売される『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』(吉川弘文館)に掲載されているはずだが俺は未読。
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※ ただし俺は「信」字拝領が天正6年で確定なのか、「四国は切り取り次第」を信長は本当に認めたのかについてなお検討の余地があるように思う。
ところで、信長と元親の対立はいつからなのか?という点だけれど、ウィキペディアによれば
天正8年(1580年)、信長は元親の四国征服をよしとせず、土佐国と阿波南半国のみの領有を認めて臣従するよう迫る[注 6]。 元親は信長の要求を拒絶する[注 7]。
このため信長と敵対関係になり[注 8]、天正9年(1581年)3月には信長の助力を得た三好康長・十河存保らの反攻を受けた。康長は息子の康俊を寝返らせ、十河存保は中国で毛利氏と交戦している羽柴秀吉と通じて元親に圧迫を加えた。
⇒長宗我部元親 - Wikipedia
と説明している。しかし学界では、藤田達生氏は天正9年6月に断交したという説を唱え、それに対してこの時点では断交していなかったという反論がなされ両論が対立していたのである(『長宗我部元親と四国 津野倫明 2014』)。
そして今回、本能寺の変直前の天正10年5月時点においてもなお、元親は書状において信長を敬っていることが確認されたのであった。