マボロシの「四国切り取り次第」(その1)

長宗我部元親の息子弥三郎が織田信長の「信」字を拝領したとき、同時に「四国切り取り次第」が認められたと一般に言われている。

四国の長宗我部氏に対しては、四国切り取り次第の領有を認めており、天正八年の段階でも阿波を安堵しておきながら、その後突然前言を翻して無理難題を押し付け、ついには討伐しようとさえした。
『信長の政略』(谷口克広 2013年)


一方、一次史料を非常に重視し(逆に言えば二次史料をあまり重視しない)渡邊大門氏は

『元親記』という軍記物によると、「この由緒を以って、四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へと御朱印頂戴されたり」と記されている。(中略)「この由緒」とは、先に記した信長が信親に偏諱を与え、阿波在陣を許可した書状になるのであろう。ただ、ここで記されている「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」という信長の朱印状は残っていない。

こうした編纂物には、執筆者の意図、記憶違い等々も反映されているので注意が必要である。この点は、非常に重要であると考える。
『信長政権』(渡邊大門 2013年)

とし、検証をした上で

そもそも信長は元親に対して、「四国の儀は元親手柄次第に切り取り候へ」ということを言っていない可能性が高い。

と結論付ける。


俺もこの主張に同意する。「四国切り取り次第」の朱印状は存在しなかったと考えるのが妥当だ。


ただし、そこまでは同意するけど、同意するのはそこだけでもある。


一次史料を非常に重視し(逆に言えば二次史料をあまり重視しない)渡邊大門氏においては、一方が正しければ、もう一方は間違っている、すなわち『元親記』という軍記物(二次史料)は史実ではないと考えているのだと思う。それは

天正六年一月以降、阿波・讃岐では十河存保が「反信長」を旗印にして決起していたため、三好康長、長曾我部元親は信長配下として、掃討戦に参加していた。別に、康長と元親の二人を敵対関係とみなす必要はない。

としていることで明白だ。『元親記』には「ある人」の讒言があって「御朱印の面御違却」とある。これが『南海通記』になると、「笑巌(三好康長)」の訴えによるものであり、天正6年夏のこととしている。


※ なお『南海通記」によれば十河存保は信長に明じられて阿波に来たことになっている。この点については新史料の発見によって、この時点で存保は反信長だったということになっているようだが原文見てないので保留。


三好康長・長曾我部元親の二人が信長配下だったからといって、二人が敵対関係にないとは限らない


渡邊氏は

あえて元親と康長の両者に不満が残る措置をしても、信長には何のメリットもない。

とする。それはその通りだろう。信長自身は二人が対立するようなことは望んでいなかっただろう。しかし、それにも関わらず両者が対立する可能性はゼロではない。


渡邊氏はこの時点では康長・元親の敵対関係はなかったとするけれども、後世の軍記物では対立があったことを記す。渡邊氏においては軍記物は二次史料であり信頼できないとすれば、この問題は簡単に解決するのかもしれないけれど、俺はそうは思わない。


ここでも俺は昨日書いた、「信」字拝領が、一次史料では天正6年(にみえる)のに対し、複数の二次史料で天正3年になっているのは矛盾ではない(可能性がある)と考えたのと同じく、一次史料で確認できることと二次史料に書かれていることの矛盾は実は矛盾ではない可能性があると思うのである。