一次史料を元にして推測すれば「四国切り取り次第」の朱印状は存在しなかったと考えるのが妥当だ。ところが『元親記』には
以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり
とあり『南海通記』には
尫弱(おうじゃく)の身ナリト云ヘトモ、四國ヲ平治シテ信長ノ御敵ノ根ヲ絶シ、忠節ヲ致サンコト乞フ。是ニ由テ御威アツテ嗣子彌三郎ニ信ノ一字ヲ賜ル。今何ノ故ニ先約ヲ變シ玉フヘキ。
とある。一次史料(による考察)と二次史料は矛盾している。こういう場合は一次史料を採用するのが常識的な判断となることに異論はない。
しかし、矛盾しているように見えることも、実は矛盾していない可能性もある。
俺は、これは、
「四国切り取り次第」の朱印状は存在しなかったが、「四国切り取り次第」の朱印状は存在した(元親の脳内では)
ということではないかと考える。
もう少し具体的に言うと昨日書いたように
対惟任日向守書状令披見候、仍阿州面在陣尤に候、弥可被抽忠節事肝要候。
次に字の儀、信遣之候、即信親可然候、猶惟任可申候也。
十月廿六日 信長 朱印
長宗我部弥三郎殿
という朱印状が『土佐物語』『土佐国蠧簡集』に載る。もちろん本物でない可能性はあるが、少なくとも1700年頃には存在した。
俺はこれこそが「四国切り取り次第」の朱印状だと考える。ここには「仍阿州面在陣尤に候、弥可被抽忠節事肝要候」と阿波在陣を承認しているが、「四国切り取り次第」とは書いてない。だがどうしたことか元親はこれをもって「四国切り取り次第」が認められたとの認識を持ってしまったのだと思う。
なお、この朱印状が捏造なら「四国切り取り次第」の朱印状も捏造すれば良かったのにと思うし、またこの朱印状が実物なら、これは弥三郎宛ではあるものの、これとは別に「四国切り取り次第」の朱印状を発行したというのも可能性ゼロではないけど不自然に思う。
すなわち、信長の認識としては「四国切り取り次第」を認めていない。しかし元親の認識としては認められたと思っている。両者の認識にズレが生じていたのだと思う。
それによって一次史料によって信長の意図を考えれば、康長と元親が敵対することを望まないから軍記物の記述にあるような信長の言動はなかったはずだということになる。しかし元親側の認識によって書かれた軍記物の場合は、信長は「四国切り取り次第」を認めたはずなのに、心変わりしたということになる。
このことは以前にも書いた。
⇒「四国は切り取り次第は事実だったのか?」および「十河存保は反信長だったのか?」について
この時に考えた認識のズレの原因は、1、元親の思い込み。2、信長が外交のかけひきとして意図的に曖昧な言葉を使った。というものだった。
しかし、今は第3の可能性があると思っている。