猿帰候て

豊臣秀吉と「猿」(その2) - 国家鮟鱇

猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候、又一若を差遣候、其面
無油断雖相聞候、猶以可入勢(精)候、各辛労令察候、今日之趣徳若ニ可申
越候也、
(『織田信長文書の研究〈下巻〉』奥野高広 昭和45)

  猿帰候て、夜前之様子具言上候、先以可然候、
 又一□を差遣候、其面無油断雖相聞候、猶以可入勢候、
 各辛労令察候、今日之趣徳□ニ可申越候也、
     三月十五日  (天下布武朱印)
   長岡兵部大輔とのへ
   惟住五郎左衛門尉とのへ
   滝川左近とのへ
   惟任日向守とのへ
膏肓記 「猿」は誰だ?

※下のは『歴史公論』誌の1936年(昭和11)6月号に掲載された「織田信長の自筆文書及び天下布武の印に就いて」(伊木寿一)に載るものだとだろう。桐野氏によれば『綿考輯録』では

「一□」が一若、「徳□」が徳若と翻刻している

そうだが、伊木寿一氏は留保したものと思われる。奥野高広氏も「若」としているが、ここで問題になるのが、『太閤素性記』に「一若」という秀吉と同郷の人物が登場することで、この文書の「一若」と同一人物ならば「猿」は秀吉だという推理も一応できる。逆に言えば「猿=秀吉」と推理すれば、「一□」は「一若」と読むのだということの補強になる。したがって奥野高広氏が、これを「一若」と読んだのは、純粋に文字を見てそう判断したのか、上のようなことが判断に影響を及ぼしたのかという問題があるように思われるが、それは本人以外知る由もないことのように思われる。同じことは『綿考輯録』の翻刻にも言えるのではないかと思われる。したがって、「一□」「徳□」が本当は何と読むのかは慎重に判断すべきだと思われるが、俺の能力では、それ以上のことはできないので判断保留とする以外にない。とにかく「猿」の正体を考察する際に「一若」と読むのだという先入観は取り除いておくべきだと思う。ただし面倒なので以下では「一若」「徳若」と書く。

※ なお下のに「天下布武朱印」とあるが、『織田信長文書の研究』では「黒印」。


あと『織田信長文書の研究〈上巻〉』に「徳若」が出てくる。「尾張津島社家堀田弥右衛門宛木下秀吉書状写」として

態申入候、仍御田次郎八はいとくの居屋敷之事、其方より徳若ニ出され候由申候、如何之儀候哉、所詮其方へ上使差越可申付候、為届如此候、恐々謹言
  十月廿五日 木下藤吉郎 秀吉(花押)
  堀田弥右衛門殿 御宿所

永禄八年のとこで〔参考〕として掲載されている。秀吉と徳若が出てくる文書だが、上の徳若と同一人であろうか?個人的にはそうは思えないけど。おそらくこの人物は津島社の関係者(成人)だろうと思いますね。


さて。この件について桐野作人氏は

?まず、この時期、秀吉は播磨にあって、本願寺=毛利方に寝返った別所長治の三木城を攻めていた。その秀吉が安土の信長のところに帰って「夜前之様子」を伝えたことになるが、まったく具体性がない。丹波方面に在陣している四将にとってみれば、播磨表の情報がこれだけでは何のことだかさっぱり不得要領ではないだろうか。明らかに筋違いの情報伝達である。

?この時期の秀吉を、いかに信長とはいえ、公式文書で気軽に「猿」と呼ぶとは思えない。三年前に秀吉は筑前守を勅許されている。その正式名称を用いないのは、家臣の手前どうなのか。

?「猿」は信長お抱えの小物頭ではないのか(秀吉も小者から小者頭に昇進した)。
「猿」を「一若」「徳若」とともに三人をセットで考えたほうがよいのではないか。この三人が信長の命を受けて、丹波表にいる四将との連絡にあたっていると解したほうが自然ではないか。

?そうだとすれば、「猿」という名の、秀吉ではない別の小者が信長のそば近くにいたことになる。考えてみれば、信長が秀吉夫人おねに宛てた有名な訓戒状では、秀吉のことを「はげねずみ」と呼んでいた。秀吉の綽名としてはこちらのほうが信憑性があるのではないか。

と指摘している。基本的にはその通りであろうと思う(思っていた)。ただし秀吉の綽名が「はげねずみ」だというのは、おね宛ての手紙に載るだけでそう言えるのかといえば言えないのではないかと思うけど。


ただ、今現在では微妙に考えが変わっている。もちろん猿は秀吉ではないという基本的なところは変わらないけど。


問題は「猿が誰か?」ということ以前に、この文書の特殊性。


いきなり「猿帰候て」である


こんな形の文章は『織田信長文書の研究』に載る信長文書を見る限りこの一通しかない。極めて特殊な文書であろう。他家にはあるとしても信長文書ではこの一通のみであることの特殊性がなくなるわけではない。


もう一つ指摘するなら、「猿」といった名前は実際ありえるだろうけれども、信長文書を見る限り、文書中にそれに類似した名前が書かれているものは無いのではないかということ。これはもっと詳細に見ないと見落としがあるかもしれないけれど。例外として「茶筅=信雄」(五三五 京都所司代村井貞勝宛印判状写)があるけど、これは息子だから。


なぜ、この文書が特殊なのかといえば、この文書が信長自筆だからだろう。これを祐筆に書かせたのなら「猿」という名前、おそらく「一若」・「徳若」も書かれず別の表現がされていたのではなかろうか?


ところで、ここで俺が注目する文書がある。天正4年に比定されている「(六五九)長岡藤孝等宛朱印状)

其方之躰、別喜(広正)・武藤(舜秀)・仙千代(万見重元)来候て、申分聞届候、莬角ニ別喜を為目付置候ハてハ如何候而、其様子別喜ニ申含、跡より可遣候、先刈田専要条、各四・五日も逗留候て、可被早飛脚差遣候、恐々謹言
  九月十日 信長(朱印)
   長岡兵部太輔殿(藤孝)
   稲葉伊与守殿(定道)
   羽柴筑前守殿(秀吉)

俺が確認した限りでは信長文書で「誰々が帰ってきて言上した」という文書は「猿帰候て」のみである。そして「誰々がやってきて申した(のを聞き届けた)」という文書はこれのみである。他は「〜申越候」のように「誰々が」が書いてない。よってこの2通が(信長文書の中では)特殊だとも言える。


ここから、「猿」「一若」「徳若」と「別喜・武藤・仙千代」はほぼ同じ役を勤めているのではないかという推測が可能ではなかろうか?しかしながら、別喜・武藤・仙千代については、それなりに経歴が明らかなのに対し、「猿」「一若」「徳若」が何者なのか全く不明なのはどういうことだろうか?その理由は「猿帰候て」が信長自筆文書だからではないだろうか?すなわち祐筆に書かせたなら別の名前で書かれたであろう人物が、信長自筆では「猿」等と書かれているのではないかということ。そういう意味では「猿」が秀吉の可能性だってあり得る。ただし、この時点での秀吉がそんな役を勤めているとは思えないという点で、やはり「猿」は別人であろう。


とはいえ、「猿」等はそれなりに重要な役目を担っていると考えるべきで、我々は「猿」と呼ばれている人物のことを知っている可能性が高いのではないかと思うのである。では、それが誰かといえば、「別喜・武藤・仙千代」あるいはその内の誰かと「猿」「一若」「徳若」のどれかが同一人物の可能性があるのではないかと思うのである。


(追記 18:17)一般に万見仙千代は小姓とされてるが『信長公記天正6年に

(略)即ち、御奉行、御人数の事。
 津田七兵衛信澄、堀久太郎、万見仙千代、村井作右衛門、木村源五、青地与右衛門、後藤喜三郎、布施藤九郎、蒲生忠三郎、永田刑部少輔、阿閉孫三郎。

とある。彼らも「猿」等の候補者になると思われ(このうち堀、万見、後藤、布施。蒲生、永田、阿閉が相撲を取っている。津田は一門、村井、木村、青地は年長だから参加しなかったのだろうか)。



ところで、「猿帰候て」は、なぜ信長が書状を自ら書いたのだろうか?それは「各辛労令察候」だからだろう。信長はここで諸将に非常に気を遣っていたのだと考えられる。気を遣っているのは諸将が辛労だからということにはなるけれども、そのせいで信長の作戦に支障をきたさないようにするためだろう。その重要な役目を勤めるのにはそれなりの人物を派遣する必要があるだろうから、それほど下っ端の者ではないと考えるべきだろう。



※ あと年次については『信長文書の研究』は天正5年とし、鈴木重秀の居城を攻めていたとする。鈴木重秀の居城がどこにあるのか知らないが和歌山のどこかだろう。信長は鳥取若宮八幡宮阪南市)にいた。「夜前(昨夜)之様子」を聞くことは十分可能。『綿考輯録』は天正6年としてるそうだが、『信長文書の研究』では3月4日付で藤孝に20日までに出陣するよう命じている。『信長公記』では4月10日に城攻めの記事。信長は3月15日には安土にいると推測される。したがって天正6年3月15日に藤孝等が丹波にしたとしても丹波の情報(荒木山城は篠山市)を安土で聞くことになるが距離的にどうだろうか?その日のうちにだったら不可能ではないとは思うけど。


また、桐野氏の記事で

なお、奥野はこの文書を収録していないが、上に挙げた藤孝宛ての信長朱印状(三月四日付)の解説で、「三月十五日信長は光秀・一益・長秀・藤孝の四人の行動を是認し、なお油断するなと戒めている」と述べている。これは明らかに上の信長朱印状の内容を念頭に置いたものだろう(存在を知っているのに、なぜ収録してないのか)。

とある。要するに『信長文書の研究』の天正6年に「猿帰候て」の文書が収録されてないということ。それもそのはず天正5年に収録されてるのだが、察するに奥野氏も最初は天正6年に比定してたのを天正5年に改め、しかし解説の方はそのまま残ってしまったということだろう。


(追記9/12)
信長公記天正5年

三月朔日、滝川、惟任、惟住、蜂屋、永岡、筒井、若狭衆に仰せつけられ、鈴木孫一が居城取り詰め、

 御名物召し置かるゝの事
 雑賀表、多人数、永々御在陣。忘国迷惑を致し、土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫、松田源三大夫、宮本兵大夫、島本左衛門大夫、栗本二郎大夫、已上七人連署を以て、誓紙を致し、大坂の儀、御存分に馳走仕るべきの旨、仰せつけらる。
 佐久間右衛門、惟任日向守、惟住五郎左衛門、羽柴筑前、荒木摂津守、残し置かせられ、杉之坊、津田太郎左衛門、定番に置かる。

織田信長文書の研究〈下巻〉』

今度雑賀事、可加成敗候処、可抽忠節之旨、以折帋申候段、被聞召届候、然上者、無異議被赦免了、向後別而粉骨専一候、猶小雑賀向在陣者共可申候也、
   三月十五日 (信長)(朱印)
    鈴木孫一(重秀)とのへ
    栗村三郎大夫とのへ
    嶋本左衛門大夫とのへ
    (以下略)

「猿帰候て」の書状と同じ3月15日に和議が成立している。とても大事な局面であり、猿、一若、徳若の役割は重要だったはずで、それなりの人物のはず。


(追記 その2 9/12)
長谷川竹のことを「竹」と書いてる書状あり。

(六九八)為歳末之祝儀、小袖五到来候、嘉例旁以悦入候、猶可申候也、
      十二月卅日 信長(黒印)
       水野監物殿

(一一一五) 某宛印判状写
白魚一折、鱸十到来候、細々懇情喜入候、猶可申候也、
十二月廿四日 信長(印判)

この「竹」が「長谷川竹」なのは明らかで

(六九七) 為音信、赤貝一折到来、毎日懇情喜入候、猶長谷河・矢部可申候也、
      十二月十六日 信長(黒印)
       水野監物殿

とある。「矢部」は矢部善七郎家定。


長谷川竹を「竹」と書くことと「猿」を同様と考えれば、「(名字)猿」「(名字)一若」「(名字)徳若」という人物が信長に近侍しており、しかも重要な役目を勤めていたことになるけれども、そんな人物の存在が他の史料で全く確認できないのは極めて不思議なことではなかろうか?彼らは史料上で別の名前で登場しているのだと俺は思う。書状が信長自筆であったために彼らが日常で呼ばれている名前が使われて後世に残ったのではなかろうか?