石谷家文書の解読(その7)

石谷文書』

一 今度御請、菟角于今致
  延引候段更非他事候、進物
  無了簡付而遅怠、既早
  時節都合相延候条、此上者
  不及是非候歟、但来秋調法
  を以申上、可相叶儀も可有之哉と
  致其覚悟候

盛本昌弘氏の読み下し

一、今度御請菟角今に延引候段、更に他事にあらず候、進物了簡無きに付いて遅怠、既に時節を過ぎ都合相延び候条、此上者是非に及ばず候か、但し来秋調法を以って申上、相叶べき儀もこれ有べき哉と其覚悟致し候、

盛本昌弘氏の訳

一、信長の朱印状に対する承諾が遅れたのは進物を用意できなかったためで、特に他意はありません。しかし時節を過ぎてしまったので、この上はどうしようもないのでしょうか。ただし、秋に用意をして申し上げれば、信長の意に合うこともあると覚悟しています。

「但来秋調法を以申上、可相叶儀も可有之哉と致其覚悟候」
について。これは既に何度か言及したことがあるけど、また書いてみる。


この前に「不及是非候歟(どうしようもないのであろうか)」と絶望的なことを書いており、それに続けての「但」だから、僅かな希望を書いていると考えて間違いないだろう。


しかし、ここに大きな問題がある。「来秋」だ。普通に解釈すれば「来年の秋」だ。この書状は5月21日に書いたものだ。もう時機を失ってしまったというようなことを書いているのに、「来年の秋」では1年以上も先の話だ。また「朱印状」がいつ出されのかは確実ではないけれど、仮に正月のことだとしても5月には「遅怠」になっているのだ。


現実的に言っても信長の四国攻めは5月に始まっており、元親が手紙を書いている時点で、一宮城・夷山城は攻め落とされている可能性が高い。そんな切羽詰まった状況で「来年の秋」というのは明らかに不自然だ。


盛本氏は「秋に用意をして申し上げれば」と単に「秋」とのみ訳している。解釈に悩んだに違いない。俺も「来たる秋」として「この年の秋」という解釈を試みたが、かなり苦しい解釈だ。しかも「この年の秋」であっても遅すぎるだろう。


というわけで、これを「来年の秋」としようが、無理やりな解釈で「来たる秋」としようが、元親が何を言わんとしているのか全く理解に苦しむことになってしまうのである。


もう一つの問題は「調法」だ。『石谷家文書』ではこれを

貴重な宝物

と解釈している。つまり「重宝」のこと。


元親は先に「進物」を用意できなかったので遅怠したという話をしている。ゆえに「進物」として「重宝」を差し上げれば何とかなるのではないかというのは一応筋が通っているようにみえる。しかし何度も言うように「来秋」では遅すぎる。


さらにいえば進物を用意できなかったから遅れたなどというのは、およそ事実とは考えられない。信長の指示に納得できなかったから延引していたと考えて間違いあるまい。というか元親自身があとで不満を述べているし。そして元親自身が進物云々の言い訳を信長が信じるとは思っていなかっただろう。であるならば「来秋」に「重宝」を差し上げてたところで、どうにかなるものではないことは火を見るより明らかだ。



盛本氏は「調法=重宝」に同意できなかったのであろう。

用意をして

と訳している。「調法」には

ととのえること。準備すること。特に、食事のしたくをすること。

ちょうほう【調法】の意味 - goo国語辞書
という意味があるからそれを採用したのだろう。しかし何を用意するのかについて盛本氏は何も言及していない。何の「用意」かは明らかにできないけれども、とにかく「重宝」は無いと思ったのではないだろうか。


ただ既に書いたように「重宝」だろうが「用意」だろうが、「来秋」がネックになるので、書状の解釈はすっきりしないものにならざるを得ないのである。


で、俺が当初から考えているのは「調法」とは「調伏法」のことではないかということだ。


(長くなったのでつづく)