:元親記

群書類従』より

信長卿と元親被申通事 付 御朱印の面御違却之事

信長卿御上洛以前より被通し也。御奏者は明智殿也。又明智殿御内斎藤内蔵助は。元親卿為には小舅也。明智殿御取合を以。元親卿の嫡子弥三郎実名の御契約を致す。此時元親よりの使者に。賀見因幡守と云者罷上る。進物は長光の御太刀。御馬代金子十枚大鷹二連也。則信と云御字を給る。依之信親と云し也。其為御祝儀。信長卿より左文字の御太刀。(?)は梨地金具金具分は後藤仕也。御馬一疋栗毛拝領有。以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり。然處に其後元親儀を信長卿へ或人さヽへ申と有聞及申處に。元親事西國に並なき弓取と申。今の分に切伐に於は。連々天下のあたにも可罷成。阿州讃州さへ手に入申候はゝ。淡州なとへ手遣可仕事程は御座有間敷と申上と云。信長卿實もとや思しけん。其後御朱印の面御違却有て。豫州讃州上表申。阿波南郡半國本國に相添可被遣と被仰せたり。元親四國儀は。某か手柄を以切取申事に候。更信長卿可為御恩義に非す。存の外なる仰驚入申とて。一圓御請不被申。又重而明智殿より。斎藤内蔵助兄石谷兵部少輔を御使者に被下たり。是にも御返事被申切也。就夫四國への御手遣火急に御沙汰有。信長卿御息三七殿へ四國の御軍代被仰付。先手として三好正嚴天正十年五月上旬。阿波勝瑞へ下着す。先一の宮蠻山表へ取掛両城を攻落す。三七殿は岸の和田まて御出陣と有。扨斎藤内蔵助は四國の儀を気遣に存によつて也。明智殿謀反の事彌被差急。既六月二日に信長卿御腹をめさるゝ。此註進堺より上之坊と云者申来る。三好正嚴も阿波を打捨上る。已に元親卿運を開き給ひし也。其砌元親以の外煩也。嫡子信親其頃十七歳にて。元親被へ被申けるは。頓に阿州へ罷立。一の宮蠻山両城を取返し。三好と合戦の足代に被成候て。可然候半と被申ぬ。元親卿尤の儀に候へとも。来る八月より内は先無用にて候と。達て留給ひつれ共。手廻小姓分迄にて打立。阿州海部にて跡勢を侍るゝ。追付元親卿より近澤越後守を信親へ使に被立。今度其方の存分。若き者には尤の儀也。然とも来る八月に催し打立て。三好と一合戦して阿讃両國の弓矢をほすへきと思ふ也。其内少の事に手を碎き。軍兵も疲ぬへし。先其弊を勘へたらんこそ。以後の為にも成候はんとすれと。親泰へも被云越。其上元親の御病気重り申由。日々に申越により。先境目の城普請等云付。越後達て御異見申。先供して歸陣有し也。

長文で考えなければならないことが厖大にあるけれど、これを読んで非常に驚いたのが、本能寺の変の時に長宗我部元親が病気だったということ。そんな話まったく知らなかった。


この部分どう解釈したらよいのか悩むのだが、天正10年5月末から6月初の頃に長宗我部元親が病気だったということか、それとも本能寺の変で信長が死んだことを聞いて元親が「以の外煩也」という状態だったのかということ。


というのも信親が一の宮城、夷山城を取り返そうと進言したのに対して、8月より内は無用だと答えているからである。その理由は軍兵が疲れるということと元親の病気ということになっているけれども、そんな理由で止めようとするだろうかというのが大いに疑問なのだ。


本当の理由は別にあるのではないかとも思われ。それが何かと考えるとき、元親が本能寺の変を聞いて病んだとするなら、元親の病は精神的なものに由来するのではないかと考えられ、そして「8月より内は無用」と言っていることからすると、それは「死者に対する服喪」を意味するのではないかと、突飛な考えかもしれないけれど思ってしまうのである。
信長の49日は7月20日


そして、その「死者」は誰かというと、(山崎合戦の後のことだとしたら)明智光秀斎藤利三だとも考えられるけれども、その場合は四国征伐を阻止した恩人に対しては、一の宮城・夷山城を取り返すのは彼らの意に叶っているようにも思われるのであり、すると「死者」とは織田信長のことになりはしまいかと思うのである。


ではなぜ信長の喪に服さねばならないのかということになるけれど、そこは考えが二つあって、ひとつは元親は信長と敵対関係になったとはいえ、信長に対する尊敬の念が強かったという可能性。そしてもうひとつは元親には後ろめたいことがあり、信長の怨霊を恐れたという可能性があるように思われるのである。ってかなりトンデモの領域に入っているけれど…