南海通記(2)

阿波讃岐兵將屬三好存保記
天正六年正月十河存保阿波國ニ歸リ、三好家ヲ繼テ讃州ノ諸將ニ書ヲ贈テ曰。今茲我信長ノ命ヲ受テ阿波ノ守護職ト成リ下向ス。讃州阿州ハ同胞ノ國也。往年ノ遺恨ヲ捨テヽ倶ニ力ヲ合セ、國ヲ保ツヘキ也。是更ニ私ノコトニ非ズ。數代相續スル所ノ國家ノ為ニシテ、累代ノ先祖へ孝行也ト云送ラル故ニ、諸家ヨリ使者ヲ以テコレヲ賀ス。香西伊賀守ヨリ植松経帯刀ヲ(幼名久助)以テ使者トス。其跡ニテ騒動アリ、諸家ヨリ存保ニ註進ス。存保即帯刀ニ告ル、然シテ植松備後守七十二歳ニシテ敵十五人ニ出合八人ニ深手ヲ負セ討レヌトアリ。是ハ貴方ノ為ニ何人ゾトアリ。帯刀カ曰、ヲレハ我ガ父ニテ候ト申シカハ、座中ノ人々皆帯刀カ顔ヲ見タルト也。夫ヨリ存保ニ暇ヲ乞。夜ヲ日ニ継テ馳歸リ松縄手城ニ入リ、母方ノ祖父ナレバ宮脇兵庫カ兵二百餘人ヲ合セテ、作山城ニ向ヒ、上ノ山ヨリ鋨(テツ)砲ヲ放チテ攻落サントス。地蔵院ト宗玄寺ノ取扱ヒニテ無事ヲナス半ナレバ、両僧ヨリ制シテ止ヌ此帯刀ハ人才ト云ヒ勇剛ト云ヒ常人ニ勝レタレバ、氏族ノ棟梁トシテ諸人信用ス、然ルトコロニ天正十二年不幸ニシテ早世ス。世人皆惜マズト云コトナシ。


俺はは阿波の歴史に疎いので今勉強中なんだけれど…


天正3年に阿波三好家の長老三好康長(笑岩)が信長に降る。しかし三好長治・十河存保は従わず阿波三好家は分裂する。三好長治は阿波の勝瑞城にいたが守護の細川真之が勢力を増し天正5年3月(4年12月説もあり)に長治は自害する。これによって長宗我部元親は阿波に侵攻する。主のいなくなった阿波三好家は「阿波の屋形」として長治の弟の十河存保を迎え入れる。


その際、『南海通記』によれば三好(十河)存保は「信長ノ命ヲ受テ阿波ノ守護職ト成リ下向ス」とある。つまりこの時点では信長との対立は解消していたことになる。


時系列でみれば
天正3年 
(親信長)三好康長 長宗我部元親 (反信長)三好長治・十河存保
天正5年
(親信長)三好康長 長宗我部元親+細川真之 (反信長)三好長治 (不明)十河存保
天正6年
(親信長)三好康長 長宗我部元親 十河存保
ということになろう。


ところで阿波において、元親の侵入は反信長の三好長治を攻撃するという点で信長の意に叶ったものであったが、親信長の十河存保が阿波の国主になったことによって、その点での正当性が喪失した。十河存保(および三好康長)としては阿波に侵入した元親勢力に撤退して欲しいと願ったことは言うまでもないことだが、元親側としてはこれまでの行動は正当なものであったのだから素直に従うはずもない。


先に書いた『南海通記』にも

阿州南方ニハ、長宗我部氏ト遺恨ノコトモ有ユヘニ是ヲ赦宥ス

とあり、信長としても阿波南方(みなみかた)については元親の領有を認めざるを得なかった。だが、元親側としては、それだけでなく「信」字拝領を由緒とした「四國の儀は。元親手柄次第(元親記)という朱印があることを根拠として阿波侵攻を止めない姿勢を取ったということだろう。


『南海通記』によれば「信」字拝領が天正6年よりも前であることは記述からもはっきりしているだけでなく、天正6年のことだとするのは、三好存保は信長の命で阿波に下ったのに、それを攻めることを元親に許すというのは考えにくいという点でも否定されるものであろう。



しかし、これはあくまで『南海通記』を元にして考えたものである。Tm.さんの「天正6年といえば反信長派の十河存保が阿波に渡海した年であり、」とのコメントがあり、それが何を根拠にしたものかわからないけれど、そういう説もあるのかもしれない。


なお、十河存保の阿波支配は順調なものとはいえず、そこに元親の付け入る隙があったように思われるが、そのへんはまだ勉強不足。


※ ところで『南海通記』によれば天正6年に信長は「阿波讃岐伊豫ハ信長ノ幕下ノ國ナレバ、必ズ私ノ弓矢ヲ取カクベカラズ」と元親に告げたことになっているけれども、四国政策の変更は天正8年というのが通説になっているように思われる。このあたりの詳しいこともよくわからない。