南海通記(3)

阿州重芿合戰記
天正六年夏。土佐元親大兵ヲ發シ、阿波ノ大西ニ來リ重芿ノ城ヲ陥テ下郡ヘ出ントス。
(略)
土佐州進テ重芿ノ城ヲ抜キ、元親ノ本陣トシ、是ヨリ岩倉表ニ發向セントス。岩倉ノ城ハ美馬三好二郡ノ旗本ニシテ、河内國高屋城主三好山城入道笑岩カ本領也。其ノ子式部少輔(幼名徳太郎)是ヲ守ル。即和平ヲナシ實子ヲ質トシテ土州ニ遣ハス、家臣大島丹波モ實子ヲ連テ出テ質トナシ拜禮ス。是ニ由テ上々二郡土佐方ニ屬シ元親歸陣アル也。阿波ノ大西出雲守、海郡左近將監、一ノ宮長門守ハ三好海雲ノ婿ナレバ、三好家ノ敵トナルベキコトニ非ズ。岩倉ノ式部少輔ハ三好郡ノ本主ナレバ、存保ニ敵スベキニ非ズ、義ヲ捨テヽ利ニ附ク時節ナレバ、時變ヲ待ツベキ爲ニヤ有ケン、淺マシキコト也。却テ佗名ノ臣、矢野駿河守、森飛騨守、重芿豊後守等カ如キハ潔白ニシテ死ヲ善道ニ遂ケタリ誠ニ人ハ一代名ハ末代也。


「式部少輔」についてウィキペディア

三好 康俊(みよし やすとし、生年不詳 - 天正10年(1582年)頃)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。阿波三好氏の一族。

生涯

三好康長の嫡男として生まれる。後に岩倉城主となり、従兄弟の横田宗昭や、重臣塩田一閑ら側近の補佐を受けた。父の康長が畿内へと移動した後は勝瑞城城主となる。

三好康俊 - Wikipedia
と説明している。が典拠は不明。


この「式部少輔」は、これ以降の信長と長宗我部の交渉に関わってくる非常に重要な人物なのだが謎が多い。


まだ調査中。