南海通記(1)

近代デジタルライブラリー

信長公被加制詞土州元親記

天正六年ノ夏。三好山城入道笑岩ヨリ、信長ニ訴ヘケルヤウハ、土州長宗我部己カ威ヲ恣ニシテ公儀ヲ懼レズ、阿波國ニ攻入リ、南方二郡ヲ押領シ、笑岩カ本領美馬三好二郡ヲ掠ム。己モ信長公ノ幕下ナレハ、笑岩カ本領ヲ犯スヘキコトニ非ス。畢竟上ヲ蔑ニスル狼藉人ナリ。制止ヲ加ヘラレズンハ後日天下ノ禍害ヲナスベシ、早ク御裁断ヲ仰キ奉ル由ヲ言上ス。信長公聞玉ヒテ謂レアル申状也即制止ヲ加ヘラルベシトテ其書ヲナシテ土州ニ下シ玉フ。其文躰厳重ニシテ私ノ兵革ヲ起ス事ヲ制止ス。阿州南方ニハ、長宗我部氏ト遺恨ノコトモ有ユヘニ是ヲ赦宥ス其外、阿波讃岐伊豫ハ信長ノ幕下ノ國ナレバ、必ズ私ノ弓矢ヲ取カクベカラズ。若違犯セシメバ土州ニ征伐ヲ加ヘラルベキ也トノ下知ナリ。元親コレヲ聞テ承引ノ意ナクシテ曰、昔我人ニ先立テ信長ニ候ズ。尫弱(おうじゃく)の身ナリト云ヘトモ、四國ヲ平治シテ信長ノ御敵ノ根ヲ絶シ、忠節ヲ致サンコト乞フ。是ニ由テ御威アツテ嗣子彌三郎ニ信ノ一字ヲ賜ル。今何ノ故ニ先約ヲ變シ玉フヘキ。コレ唯佞人ノ言シ妨グルナルヘシ、元親カツテ忠ヲ忘レズ此四國ヲ平治シテ信長公ノ御先ヲ仕ランコトヲ欲ス。此旨ヲ以テ宜シク申シ洩サレ給フベキ也トの返翰トゾ聞ヘケル。

天正六年に織田信長の四国政策変更があり、長宗我部元親が承知せず抗議したという話。


ところが、今回発掘されば石谷家文書
林原美術館所蔵の古文書研究における新知見について ―本能寺の変・四国説と関連する書簡を含むー - 株式会社 林原
の「長宗我部元親書状(天正6年(1578) 12月16日)」に元親の嫡子弥三郎が「信」の字を拝領したことが書かれており、読みようによっては天正6年のことだと解釈できるようにも思えるのである。通説では「信」字拝領は天正3年のこと(『土佐物語』によると思われる)で、『元親記』には「以此由緒四國の儀は。元親手柄次第に切取候へと御朱印頂戴したり」とあり、この『南海通記』でも天正6年以前のこととして書いてある。


もし仮に「信」字拝領が通説とは異なり天正6年のことだとすると、これまでの信長の四国政策に関する通説は根本的に見直さねばならなくなる。


しかし、その前に「長宗我部元親書状」の解釈をどうすればよいのかを徹底的に検証する必要があり、安易に「信」字拝領が天正6年のことだとするわけにはいかない。もし天正6年以前のことだとすると、なぜ天正6年の文書にそのことが書かれているのかということも当然考えなければならない。




あと、『南海通記』によれば、信長の四国政策変更というものは、長宗我部側の論理であって、信長にしてみれば阿波は既に信長の支配下にあるのだから侵攻するなという論理であって、変更したという認識をもっていないように思われる。