長元物語

群書類従』より関係ありそうなところを抜粋。

一。元親公土佐一ヶ國御存分ニ成ヤ否。泉州堺ノ商人商賣ニ下ル。宍喰屋ト云者ヲ御呼有テ被仰ハ。汝尾州ヘ下リ。織田信長ト云大名ヘ。此状ヲ指上ル才覺仕ニヲイテハ。滿足ナラメト仰ラレシカハ。宍喰屋畏テ尾州ヘ下ル。其時分ハ堺ヨリ尾張へ下ルハ。西國ヨリ關東ヘ上ルヨリ太儀ニ思フ時節也。然レトモ無恙下リ。返状取指上ル。御滿足不斜。通路難成モ理ヤ。國々亂ノ折節。一日モ道中安キ事モナシ。宍喰屋一廉ノ忠節ニ思メス子細ハ。信長必天下ノ主ニ成タマウベシト。元親公御積ノ子細有テ仰入ラルヽ趣ハ。嫡子彌三郎ト申ス躮(せがれ)ニ御名乗字ヲ拝領仕度トノ儀ニツキ。信長公殊外御滿足有テ。則信ノ字ヲ下サル。則彌三郎殿ノ御名乗信親ト申也。惜哉。豊後陣ノ時。仙石殿敗軍ノ節。御歳廿三ニテ討死成サルヽ也。

一。元親公ニ男子五人。女子一人。都テ十人。嫡子ヲハ彌三郎信親云。(略)
一。二男五郎次郎。(略)
一。三男孫次郎。(略)
一。四男右衛門太郎。盛親(略)
一。五男右近太夫。(略)此母儀ハ小少将ト云。
一。女子一人。(略)
一。女子一人。(略)
一。女子一人。(略)
一。女子一人。(略)
 右四人ノ母儀ハ斎藤内蔵介妹也。
一。女子一人。小宰相殿ト云。左京太夫と同腹也。(略)


「左京太夫」は「右近太夫」のことか?

長宗我部 右近大夫(ちょうそかべ うこんだいふ、天正11年(1583年) - 元和元年(1615年))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。土佐国戦国大名長宗我部元親の五男。諱は不詳。官位は右近大夫。母は側室の小少将。異父兄に細川真之、三好長治、十河存保

長宗我部右近大夫

母・小少将

真之の母・小少将は、美女であったといわれる。細川持隆の死後、持隆を滅ぼした三好義賢の妻となり三好長治・十河存保を産み、義賢の死後は三好氏の重臣である篠原自遁(篠原長房の弟)の妻となった。さらにその死後は長宗我部元親の側室(子に長宗我部右近大夫)となったという(ただし、別人の可能性が高い)。それも政略結婚ではなく、自身の判断で世を渡り歩いた烈女であったといわれている。

細川真之 - Wikipedia


元親夫人(斎藤利三の妹)は本能寺の変の翌年の天正11年(1583年)に死去(死因はなんだったのだろう?)
小少将の前夫の篠原自遁がいつ死んだのかは不明。天正10年には生きていた。
篠原自遁 - Wikipedia
元親夫人が死んだ後に小少将の「側室」になったということか?本当に「側室」なのか?右近太夫天正11年生まれとなっているから元親夫人の生前に「側室」になったということになるんだろうけれど…

あと「政略結婚」ではなくとあるけど本当だろうか?
あと「別人の可能性が高い」ってどういうことだろう?
あと「元親公ニ男子五人。女子一人」の「女子一人」とは「小宰相殿」のことと思われ、だとすると元親夫人が産んだ4人の女子が数に入っていないのはどうしたことだろうか?