石谷家文書の解読(その8)

引き続き

但来秋調法を以申上、可相叶儀も可有之哉と致其覚悟候

「調法」の意味は(1)重宝(2)ととのえること。準備すること。(3)「調伏法」の略。
ちょうほう【調法】の意味 - goo国語辞書


石谷家文書』は「重宝」、盛本昌弘氏は「用意をして」と訳す。「調伏法」という意味も当然知っていたはずだが採用されなかった。理由は不明。


だが「調伏法」こそが一番しっくりくると俺は思う。


もちろん「調伏法」であっても「来秋」がネックになることに変わりはない。しかしそれは「秋」を「あき」と読んだ場合はということだ。「秋」は危急存亡の秋というように「とき」とも読む。「事にあたっての大事なとき」という意味。「来秋」は「来る存亡のとき」と解釈できるのかもしれない。その場合は「調伏」(害意のある者を修法により撃破すること)によって叶うこともある。という意味なのかもしれない。
調伏(じょうぶく)とは - コトバンク
と、いうようなことは前にも書いた。
来秋 - 国家鮟鱇


しかし、これ以外の可能性もあるかもしれない。


「秋」という字と「狄」という字は似ている。


これは「来秋」ではなくて「来狄」ということは無いだろうか?「来狄調法」で「来る敵を調伏法で撃破する」という意味の可能性は?


というわけで「電子くずし字字典」で「秋」と「狄」を見てみた。すると、俺の目には元親書状に書かれている文字は「狄」の方が遥かに似ていると思えるのである。なお「秋」と「狄」の違いは言うまでもなく「のぎへん」と「けものへん」の違い。
5画の部首のくずし字 | 古文書便覧
4画の部首のくずし字 | 古文書便覧
上記のサイトを確認しても、やはり俺の目には「けものへん」のように見える。


もっとも俺はこの方面に全く素人なので、あくまで見た目で言っている。筆遣いなどで判断すると「秋」なのかもしれない。分かる人は是非確認していただきたい。

(『石谷家文書 将軍側近のみた戦国乱世』(浅利尚民・内池英樹)


なお話はここで終わらない。「来」にも疑問がある。というのも「来秋」は「来狄」ではないかと上に書いたけれども、さらに言えば「来狄」よりも「夷狄」の方がすっきりするのである。「来狄調伏」という言葉を見たことはないが「夷狄調伏」という言葉ならば普通に存在する。


というわけで「電子くずし字字典」で「来」と「夷」を調べてみた。すると確かに「来」の方が似ているように思われる。しかしながら「夷」の可能性が全くないかといえば、そんなことはなく、非常に微妙な「夷」のくずし字もあるのだ。


これもわかる人は是非確認していただきたい。
電子くずし字字典データベース


なおもしこれが「狄」だとしたら、「狄」は誰なのかといえば織田信長の可能性はほぼゼロだ。書状は明らかに信長への敬意を示しているのに「狄」はありえない。では誰のことかといえば三好康長のことになるだろう。


文意としては直訳すれば、「もうどうしようもないのだろうか。ただし狄(敵)を調伏法でもって撃退すればなんとかなるかもしれないと、そう覚悟しています」となる。しかし、調伏法などという呪いは非科学的であり、当時であっても本気で信じている人は稀で気休め程度のものであろう。


すると、ここでこういうことを書いたのは「まだ望みがある」ということではなくて、その逆で「望みが全くない」ということであり、「不及是非候歟」という言葉は割と良く使われるので、そうは言っても何とかなるんじゃないかという印象を持たれるのかもしれないので、やれることといったらこれくらいだと非現実的な手段を提示することで、相手に「本当に絶体絶命なんだ」ということを訴えるためではないかと思う。


※ なお調伏法だとすれば「愛宕」との関係も気になったりするんだが、さすがに妄想に妄想を重ねすぎなんでやめとく。
※ やめとくと言ったけど「来秋」を「来るとき」と読んで「調法」を「調伏法」と解釈した場合、光秀が愛宕山で「ときは今」と詠んだのは…なんて妄想が