「幸村と云は誤なり」と水戸光圀が書いたと云は誤なり

俗伝で幸村の佩刀であったとか介錯に村正を用いられたという話があり、すべて誤伝であるのだが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた[4]。このため国学者でもある徳川光圀がわざわざ「幸村というのはあやまり也」[4]と書き記したほどである。

跡部蛮 『真田幸村英雄伝説のウソと真実」』 双葉社、2015年。ISBN 9784575154658。

真田信繁 - Wikipedia

歴史家/博士(文学) 江戸ぶら会(古地図を持って歩く会)会長 近著に『真田幸村英雄伝説のウソと真実」』。このほか『古地図で謎解き 江戸東京「まち」の歴史』など著書多数。

跡部 蛮(@atobeban)さん | Twitter


この影響なのか、これがさらに発展した


というツイートがあって現在「いいね」が1376件。丸島和洋氏がリツイートしててそれで知った。


だが、『西山遺事』にはウィキペディアにあるように、そして跡部氏が書くように「幸村と云は誤なり」と書いてあるが、正確には

眞田左衛門佐信仍(幸村と云は誤なり)

であって水戸黄門は「真田幸村じゃなくて真田信繁だからな!」などとは記録していない。よってこのツイートは明らかに間違ってる。


次に『西山遺事』はどういうい史料かというと、

水戸藩2代藩主徳川光圀の言行録。光圀に仕えた三木之幹,宮田清貞,牧野和高の3人が,光圀の没した翌1701年(元禄14)に編集。5巻。一名《桃源遺事》。

西山遺事(せいざんいじ)とは - コトバンク
というもの。すなわち、「幸村と云は誤なり」と書いたのは水戸光圀ではない。編者が注記したものだ。よって跡部氏の

黄門様こと徳川光圀はわざわざ「幸村といふはあやまり也」と書いている。」
(『真田幸村英雄伝説のウソと真実」』 )

というのがそもそも違う。


ところで「幸村と云は誤なり」なら何が正しいのかというと「信仍」が正しいということになる。少なくとも編者はそう考えたに違いない。これをどう考えるかだが、光圀の言行録だから、徳川光圀が「信仍」と認識していたという可能性がある。だから「信仍」が正しくて「幸村」というのは誤りだと編者は考えたということなのかもしれない。しかし、言行録だからといって光圀の発言をそのまま記録したとは限らない。光圀自身は「眞田左衛門佐」としか呼んでなかったのを、編者が正しいと考えた「信仍」を付して記録した可能性もある。


あるいは光圀自身は「幸村」と呼んでいたが、これは誤りだからと編者が「信仍」に修正して「幸村といふはあやまり也」と注記した可能性だってなくはないだろう。


※ なお

写本で伝わった「繁」の崩しを「仍」と誤って伝えた故に生じた誤解だろう。

真田信繁(幸村)書状が出現しました! ★2016年7月6日から、真田宝物館(長野市松代町)で展示中です。 | 松代藩第六代藩主 真田幸弘の文藝
とあるけど「電子くずし字字典データベース」で比較しても全然似てない。そんな誤解はありえるのだろうか?(ちなみに「繁」と「雪」ならなんとなく似てる)。


「信仍」の「仍」が「より」と読むのなら「秀頼」の「より」と音が同じだから「のぶより」説があったのかもしれないとも思う。


※ 「幸村」の初出史料とされているのは『難波戦記』(1672)。水戸光圀の没年は1701年。光圀が「幸村」という名が流通していることを知っていた可能性はある。


※ なお

真田信繁とおおっぴらに言えないので軍記物の仮名として使われた

とあるけど、歌舞伎や浄瑠璃で名前を変えることはあるが、軍記物でもそんなことをするという話は聞いたことがない。あったとしても信繁だけが実名にできない理由が全くわからない。