『難波戦記』と『難波戦記』

このまえ「幸村と云は誤なり」と水戸光圀が書いたと云は誤なりという記事を書いたときに、真田「幸村」の初出史料は『難波戦記』だとされているということを書いた。


この『難波戦記』は軍記物語である。ところが、これを講談の『難波戦記』と混同してる人が少なからずいると思われ。

難波戦記(なにわせんき・なんばせんき)
慶長十六年(1611)三月の京都・二条城での徳川家康豊臣秀頼の会見から、慶長二十年(1615)五月の大坂夏の陣終了まで、大坂冬・夏両陣の原因、経過、結果を詳しく描いた軍記物語。京都所司代板倉家の門客であった万年頼方(まんねんよりかた)と下野国壬生(しもつけのくにみぶ)藩主阿部忠秋(あべただあき)の家臣二階堂行憲(にかいどうゆきのり)が共同で執筆し、寛文十二年(1672)ごろの成立と考えられています。

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なお講談の『難波戦記』は豊臣贔屓だけれど、軍記物語の『難波戦記』はそうではない。ただし幸村等の大坂方諸将に同情的ではある。
(参考)24年度第05回公開講座高橋圭一氏)



で、
【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(上) 最期の描写、実は講談が正しかった(1/4ページ) - 産経ニュース

 又兵衛の最期について、『難波戦記』シリーズは、腰を撃たれ歩行不能になったために部下に命じて首を打たせた、という。一方で『武功雑記』は、松平忠明(家康の長女・亀姫の子)配下の山田十郎兵衛という武士が又兵衛を討ち取ったとしている。『難波戦記』シリーズは、庶民に大好評を博した講談のタネ本です。『武功雑記』は肥前平戸藩の4代藩主、松浦鎮信(まつら・しげのぶ)が記した伝記で、元禄9(1696)年に成立している。史料的には後者の方が信頼できそうな気がしていたのですが、なんと実は、前者が正しいことが今回の発見で判明したわけですね。

「実は講談が正しかった」というけど、それについて書かれているのは軍記物語の『難波戦記』。もっとも本文には「『難波戦記』シリーズは、庶民に大好評を博した講談のタネ本です」と書いてはある。だがそもそも「『難波戦記』シリーズ」って何だろうか?意味不明だ。


※ ちなみに俺は講談で後藤又兵衛がどのように死ぬのか知らない。知ってる人も少ないと思う。軍記物語の『難波戦記』は講談のタネ本の一つではあるのかもしれないけれど、講談での又兵衛の死は『難波戦記』を元にしているのだろうか?たとえば立川文庫の『智謀真田幸村』の内容は講談の『難波戦記』そのままだという情報があるけれど、そこでは又兵衛は影武者を使って死んだように偽装し、秀頼・幸村と共に薩摩に落ち延びている。



この本郷氏の記事にはさらに問題があって、上の引用で「腰を撃たれ歩行不能になったために部下に命じて首を打たせた」とあるけれど、軍記物語の『難波戦記』には

大将後藤も、片倉小十郎が手より横合に打ちける鉄砲に内冑を打たれ、痛手になりければ、兵前に立ち隠して疵を吸ひ血を拭ふ程ぞ猶豫しける、此時井上四郎兵衛も討死す、後藤は吉村武右衛門を招き、基次は手負ひて進退自在ならず、早く吾が首取つて深田に隠し、敵に取らすなと謂ひけれは、吉村則ち後藤が首取つて深泥の中に埋む、知る人更になし、時に年四十六、元和元年五月六日なり、屍は戦場に曝すと雖も、名は蒼天の雲に揚ぐと、皆人誉めざるはなかりけり、

とあり「腰を撃たれ」などとはどこにも書いてない。「内冑を打たれ」をそう解釈したのだろうか?しかし「内冑(甲・兜)」とは

1 兜の眉庇 (まびさし) の内側。また、そこに接する額 (ひたい) の部分。
うちかぶと【内兜/内冑】の意味 - goo国語辞書

のことであろう。さらに

又兵衛の配下として戦った金万平右衛門という武士の子孫が所有していた「一、後藤又兵衛討死之時」と書き出すメモ書きを解読したところ、腰に銃撃を受けて瀕死(ひんし)の重傷を負った又兵衛は、部下に命じて、秀頼から拝領した行光の短刀で首を打たせたことがわかりました。

とあるが、こちらも「腰に銃撃を受けて瀕死」などということは一言も書いてない。そういう報道があったのかと調べたけれど俺の知る限りでは無い。『後藤又兵衛 - 大坂の陣で散った戦国武将』(福田千鶴)によれば『北川覚書』という史料に「鉄砲で腰の上を撃ち抜かれた」とあるそうだが、『難波戦記』にも新史料にもそんなことは書いてないのである。