後藤又兵衛の首

【本郷和人の日本史ナナメ読み】大坂の陣と後藤又兵衛(下)古文書精査で報道との相違点が…又兵衛の首はどこへ? 2人の小姓はいたのか?(1/3ページ) - 産経ニュース

後藤又兵衛の最期について書かれた史料について、現物を見たら報道とは異なっていたという話。具体的には、秀頼から拝領した脇差し「行光」で又兵衛の首を取ったとされていたが、そうではなかったということ。原文は

 一、後藤又兵衛討ち死の時、秀頼公より拝領の脇指し−行光−、是(これ)にて又兵衛首を討ち、秀頼公御前にて、かくの如く討ち死つかまつる次第申し上げ候へ、と申し候、長四郎と申す児姓(こしょう)に脇指し相渡し、申され候、長四郎脇指し請け取り候へども、又兵衛印(首級(しるし)のあて字だろう)をあげ候(そうろう)義(ぎ)は罷(まか)りならず、脇差しばかり、秀頼公へ差し上げ申し候事、

で、確かに「長四郎脇指し請け取り候へども、又兵衛印をあげ候義は罷りならず」とあるので、首を取ってないと解釈すべきではないかと俺も思う。


本郷氏は下の記事でもこれについて書いていて
後藤又兵衛の首は誰がドコへ持っていったのか? 東京大学・本郷教授の「歴史キュレーション」 | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

本郷「そんなんだ。そうなるね。そうすると、正しい報道をしたのは朝日と毎日。あとは間違ってたことになっちゃうんだ」

と書いている。ただし、これについては岡山県立博物館が

 今回発見された資料、書付「後藤又兵衛討死之時(ごとうまたべえうちじにのとき)」は、又兵衛の首を討った脇差が、又兵衛が豊臣秀頼から拝領したものであったこと、又兵衛最後の様子を秀頼に報告したことなどが記されており、又兵衛のもとで戦った金万平右衛門(こんま へいえもん)、もしくはその子孫が書き記したものと考えられ、平右衛門の子孫宅に残されていました。

岡山県立博物館 - 【書付「後藤又兵衛討死之時」発見について本日報道発表しました】  後藤又兵衛(ごとうまたべえ)... | Facebook
と説明しており、報道各社は博物館側の発表を「正しく」報道したものであろう。報道によれば調査に関わったのは石谷家文書で脚光を浴びた岡山県立博物館の内池英樹氏と、九州大教授の福田千鶴氏であろうと思われ。NHKの報道によれば

調査に関わった、九州大学基幹教育院の福田千鶴教授は「秀頼からもらった大切な刀で最期の奉公を遂げたと言うことができ、又兵衛らの秀頼に対する思いとともに、秀頼が又兵衛を信頼していたことも読み取れる貴重な史料だ」としています
(「大坂夏の陣で討ち死に 後藤又兵衛の最期を記す史料発見」)

とあるから、福田氏がこの解釈をしていることは疑いない。このような解釈に至ったのにはそれなりの理由があるのだろうとは思うが、その理由はわからない。

(1/19追記)コメント欄を見ての通り「福田千鶴」氏によればNHK岡山の捏造だそうだ。


「正しい報道をしたのは朝日と毎日」のうち毎日の記事は未読だが、朝日新聞

 大阪城天守閣跡部(あとべ)信・主任学芸員の解釈によると、書面にはまず、又兵衛が長四郎という小姓に脇差しを渡し、自分の首を討って、又兵衛の最期はこうだったと秀頼に伝えるよう指示したが、長四郎は首を落とせず、脇差しだけを秀頼に渡したという内容が書かれているという。さらに、もう1人の小姓も討ち死にした証拠として又兵衛の旗のようなものを秀頼に持って行き、その後、金万平右衛門がその場に到着したと記す。

大阪城天守閣学芸員に文書の解釈を依頼している。朝日記者が博物館の解釈に納得できなくて第三者に確認したのだろうか?よくわからないけど。


なお、原文の

 一、平右衛門義は右両人之者仕廻し候後に、其場へ参着申し候事、

の「其場」について、本郷氏は又兵衛が戦死した場所のことだと解釈しているのは明白だが、「(秀頼公の前に)到着した」という解釈をしている人もいる。
■後藤又兵衛新史料 - 津々堂のたわごと日録


俺はよくわからない。そもそも「又兵衛首を討ち」とか「印(首級)をあげ」とか、普通は敵将に対して使う言葉ではないかと、そこからして頭を悩ます。もちろんこれはここでは又兵衛の小姓が主人の首を敵に渡さないために切るという意味なのは明らかだけど。



※ あと、本郷氏は

 この史料には、又兵衛がどうして瀕死(ひんし)の重傷を負ったかとか、どこに傷を受けたかとかは書いてない。そこをまずは確認しておきましょう。

と書くけど、そもそも俺の確認した限りではNHK・朝日新聞産経新聞・読売新聞の記事にその記述は無い。時事通信には「又兵衛は大坂夏の陣の道明寺の戦いで傷を負い、配下に首を討たせたと伝えられる」とあり、山陽新聞に「又兵衛は、大坂夏の陣で落城前日の15年5月6日、小松山(大阪府柏原市)で伊達政宗重臣片倉重綱が率いる鉄砲隊に撃たれたとされる」とあるけれども、それは新史料にそう書いてあるという意味ではないことは普通に読めばわかる。前の記事に書いた本郷氏の

又兵衛の配下として戦った金万平右衛門という武士の子孫が所有していた「一、後藤又兵衛討死之時」と書き出すメモ書きを解読したところ、腰に銃撃を受けて瀕死(ひんし)の重傷を負った又兵衛は、部下に命じて、秀頼から拝領した行光の短刀で首を打たせたことがわかりました。

の「腰に銃撃を受けて」というのが何を元にしたものなのかは全く不明である。