前の記事に引用した本郷氏の解釈によれば、又兵衛は小姓の長四郎に脇差「行光」を渡し、これで首を打って秀頼に討死の様子を報告せよと命じた。だが長四郎は又兵衛の首を打つことができず、行光だけを秀頼のもとに持参したということになる。
たしかにこの解釈が妥当なように思えるが、それだとこの史料には又兵衛の首は結局どうなったのかが記されてないことになる。そこで本郷氏は、「又兵衛が息を引き取るときには、経験値が足りない小姓2人の他には武士がいなかった」と想定し、さらに金万平右衛門が現場にやってきたときには「小姓たちはすでにいなかった」そして「又兵衛の遺骸だけがそこにあった」とし、平右衛門が又兵衛の首を切って隠匿したと推定している。
だが、疑問なのは、なぜ平右衛門が首を切ったことが新史料に記されていないのか?ということ。
この文書は平右衛門の子孫宅に残されていたもので、「金万平右衛門自身、もしくは子孫が記した記録」だと考えられている。又兵衛の配下にいた平右衛門が又兵衛の首を敵に渡さないために首を切って隠匿したのだとしたら、それは武功であり子々孫々に伝えるべきものではなかろうか?ところがその肝心のことを書かずに、小姓が秀頼に又兵衛の死を報告したことについて記録するというのはどういうことだろうか?
つい先ほど渡邊大門氏の
後藤又兵衛や井伊直虎に関する史料については、後藤家なり井伊家なりの家臣やその子孫に伝わるものだから、二次史料であっても信憑性が高いとする論者がいる。しかし、それは必ずしも言い切れず、逆に先祖の顕彰などが目的のため、改ざんや粉飾がなされている可能性が高い。慎重な検討が必要。
— info_history (@info_history1) 2016年12月16日
というツイートがあった。この新史料の信ぴょう性を疑っているのであろう。しかし「先祖の顕彰などが目的のため、改ざんや粉飾がなされている」のだとしたら猶更のこと平右衛門が首を切って隠匿したことが記されていないのは不思議なことだと言わざるをえない。もちろん前の記事に書いたように、
後藤又兵衛討死之時従 秀頼公拝領之脇指[行光]、是ニ而又兵衛首ヲ討
を「平右衛門が行光で又兵衛の首を討った」と解釈すれば話は別だが。
何はともあれ、この史料をどう解釈すべきはまだまだ考える余地がありそうだ。
俺が疑問に思うのは、なぜ長四郎は又兵衛の首を討たなかったのかということ。
本郷氏は
ところが小姓の長四郎はおじけづいてしまったのか、又兵衛の首が打てなかった。
と解釈する。そして上に書いたように、
又兵衛が息を引き取るときには、経験値が足りない小姓2人の他には武士がいなかった
とする。そうだろうか?
俺はそうではなくて、又兵衛は長四郎に命じたけれども、長四郎が首を討つ前に他の武士によって首が討たれてしまったのではないか?と推理する。又兵衛の周囲には人が大勢いて、又兵衛が瀕死の状態なので混乱しており、長四郎が命じられていたことを知らずに、あるいは知っていながら他の誰かが先に討ってしまったのではないだろうか?
だとすれば平右衛門は後になってその場に到着したと文書に書いてあるから、又兵衛の首を切ったのは平右衛門でないのはもちろんのこと、首がどうなったのかもよく知らなかったのではないか?
であるならば、この文書は、又兵衛が討ち死にした際のことについて平右衛門が後から聞いたりして知っていることを本人(もしくは子孫の可能性もあるけど本人の可能性が高い)が記録したものであり、その際に平右衛門は何もしていないので、武功を誇るためのものではない。そのようなものをわざわざ捏造する動機はないと思われ、信用性は高いのではないかと思う。ただし、「先祖の顕彰などが目的のため、改ざんや粉飾」がなされた形跡がないからといって真実が書かれているとは限らないとは言えるけど…