加藤清正毒殺の噂は当時あったのか?


後世に俗説が出来たことを「あらぬ噂が立った」と表現できないこともないようには思うけれども、当事者達が死んでずっと後に出来た俗説を「あらぬ噂が立った」と表現することはあまり一般的でないように思う。当時から噂があったという記事が複数あるので、「当時あらぬ噂が立った」という意味のように思う。断定はできないんだけど…


だが、俺は今のところ、そういうことが書かれた史料を確認できない。既に紹介したが「加藤清正論の現在地」(山田貴司)に

会見後に行われた家康主催の「御振舞」へ清正や正則、幸長が参加した際に、「御気分悪敷」くなった参加者の存在や幸長死去の噂が取り沙汰され、豊臣恩顧の大名は毒害されかねないという見方が巷間に広がっていた事実は、同時代人のそうした認識を物語っている(『肥後国熊本様子聞書』〈新熊本市史史料編第三巻近世Ⅰ〉一〇九号文書)。

とあり、清正が毒殺されたという噂があったのなら山田氏はそれを書くのではないかと思う。『肥後国熊本様子聞書』はまだ見てない(図書館に行こうと思ってすぐに行ける環境にいないので)。見てからリツイートするべきなんだけれど、それじゃタイミングを失してしまうのでリツイートしてみた。


「豊臣恩顧の大名は毒害されかねないという見方が巷間に広がっていた」ところに、実際に清正が死んだのだから、毒殺されたとの噂が出るのは自然なことだと思う。なお『肥後国熊本様子聞書』は清正が死んだ6月24日から程ない7月10日に作成されたものらしい。だから毒殺されたとの噂が出るには早すぎたのかもしれない。また上に書いた『十竹斎筆記』の著者佐々介三郎宗淳の父が加藤氏に仕えていたことから考えると、この情報の出所が肥後加藤氏家中の可能性が十分ある。


したがって状況証拠としては、当時から毒殺されたという噂があった可能性は非常に高いのではないかと思う。だが、それを書いた史料が見つからない。それがなければいくら可能性が非常に高くても「あった」ではなく「あっただろう」としか言えないのではないかと思う。


さて、俺が現在確認できたそれらしきことが書いてある最古のものは山路愛山の『加藤清正』(明治42年)である。

されば其頃三将は毒殺せられたりなど云ふ巷説も起りしなり。三将死なざれば家康も手を大坂に着け難く、三将死して間もなく秀頼の滅びしを見ればかゝる浮説を生じたること又宜なりと謂つべき歟。

「されば其頃三将は毒殺せられたりなど云ふ巷説も起りしなり」だけを見れば、「その頃に」毒殺の噂があったというように解釈できなくもない。しかし後の文を読めば「三将死して間もなく秀頼の滅びしを見ればかゝる浮説を生じたる」とあるので、秀頼滅亡の後のこととして書いていると解釈でき、つまり江戸時代の実録等に見える清正暗殺説のことを指しているのではないかと思う。「其頃〜」とは「慶長16〜18年頃に清正・輝政・幸長が毒殺されたのだ」という意味で、その巷説が後世に出来たという意味であろう。


しかし、それが「その頃に噂があった」と読解されて、連綿と引き継がれているのではないだろうか?


加藤清正」(小泉策太郎 明治30)には

清正の死は全く家康の毒手に罹りたる故なりとは、固く熊本人士の信ずる所にして、世人亦往々之を説くと雖も、是れ俄かに首肯し難き説なり。(中略)而して二将秀頼を護して二條に入り、又た殆ど時を同ふして卒去せるを以て、爰に毒殺説を生せるが如しと雖も、幸長が二條城に入らざる、前已に説けるが如し。然らば清正独り毒を仰ぎたりとせんか、(略)

とある。「幸長が二條城に入らざる、前已に説けるが如し」とは『肥後国熊本様子聞書』のことであろう。浅野幸長は二条城に入る前に既に毒を盛られた(死んだ)という噂があったから、幸長が毒を盛られたわけもなく、清正だけが盛られたとでもいうのだろうか?という意味だと思われ。ここにも(当時の幸長毒殺説を書いているのに)当時の清正毒殺説については書いてない。


以上の理由により、当時清正毒殺の噂があったということを書いた史料は存在しない可能性が高いように思うのである。もちろん、当時噂があったと主張する複数の記事(ただし出典が書いてない)を否定するにはまだ根拠が足りないけれども。